透明になること

ある日の車の帰り道。
「頭の中を透明にしたいから、ちょっと待ってね」
と、息子に言うと、キョトンとした顔をして、「とうめい、、?どういうこと?、、、、、、、、そろそろ透明になった?、、、、、、、、どう?透明になった?」と10秒ごとに確認してくれるから、全然透明にならなくて、笑ってしまった。
頭の中を透明にしたい。
できれば、極力、毎日毎時間すっきりクリアにしておきたい。その方が、絶対にいい判断ができるから。本当は常に透明のビーカーに入った真水のような、穏やかな湖のような状態に脳の中をしておきたい。
それは、今の時代には、とっても難しいことのようにも思える。次から次へと情報が押し寄せてくるのだし、至る所から”〇〇せよ”という新たな刺激が舞い込んでくる。否応なしに巻き込まれる。
意図して、音の大きなものからは遠ざかるしかないし、視覚的な刺激の強いものは見ないようにするしかない。遠ざけたところで別の要因が湧き出てくることもある。常に成功するとは限らない。
頭の中は、目には見えない。だからこそ、より慎重に注意深く様子をみておく必要があるし、誰かの”透明になろうとしている時間”を乱すことは一番避けたい、と思う。
わたしの一番身近な透明になる方法は、全感覚を今の瞬間に集中させる事。
ドリップされるコーヒーの滴りに目も耳もすべてをつぎ込むこと。その瞬間に”時間”の概念も”他者”という存在も、”社会”という枠組みも消えて、ただ穏やかなだけの場所にいることができる。
それを”現実”とは別の”あっちの世界”と私は呼んでいて、それはそれは心地の良い場所でもある。
頭の中だけでなく、身体も透明になるような感じがして、何者でもあり何者でもないような不思議な感覚がする。
あとは、自然の緑と水辺に身を置いたり、あえて雑踏の中に紛れるという手もある。
なんにせよ”ひとりでいる”ということがとても重要な気がする。
花瓶の水を入れ替えながら、もしかしたら花を飾るということは、透明を飾るということなのかもしれないな、と思う。透明と光と、静寂を飾ることなのかもしれない。
ひとつひとつ、頭の中の言語を取り出し、淀みを搔き出し、濾過し、できる限り透明を保ちたい。
それが私にとっての、自分を尊重するということなのかもしれない。
誰にも邪魔されない、自分だけの時間・空間が必要
明日の事や他の誰かの事も考えなくていい「無」になれる、自分と向き合える時間(瞬間?)が有れば良いね