太鼓判の責任
「誰かが太鼓判を押したものしか、手を出せなくなっている」と、ある人が言っていた。
情報多可のこの時代では、ハズレの可能性があるものに時間やお金を割くことが出来なくなってきている。
例えば、映画。「すごくいい!」「絶対泣ける!」「レビュー☆5!」みたいな情報が事前に流れてきたものは、その確認作業として観に行けるけれど、よくわからないなんの情報もない映画を観に行くことが少なくなってきている。
本だってそう。誰かの「おすすめ!」があれば、手にとってみようと思うけれど、面白いかもわからない本を読む時間はない。
確かに、自分の守備範囲以外のものは「ありすぎて吟味できない」というのは、私も一緒だ。
私は、家電とかファッションとか車とか、そのあたりのことはとても疎くて、へぇ~~~と思って関連情報を受け流している。比較しようとも検討しようとも思わないから、壊れたりしてどうしても必要になって、初めてレビューサイトを見たり詳しい人に聞いたりしてアタフタしている。
反対に、自分の興味あるものに対しては、自分で確かめないといられない。ハズレを引く確率を気にせず、トライしまくる。ものや情報が多すぎる現在において、それは仕方のないこと、とも言える。すべてのことを比較検討するには、生きている時間が足りなさすぎる。
ただひとつ疑問が生じる。
「良い」といろんな人が感想を述べたものを、確認作業として体験する場合、そこに「バイアス」はかからないのだろうか?
「みんなが良いと言っているのだから、おそらくこれが《良い作品》なのだろう」というような、客観的な目が《自分にとっての判断》の邪魔をしないのだろうか。
先日、とても「読んで良かったなあ」と思う本があったので、シェアした。とにかく、読んでくれる人がひとりでも居たら良いなあと思ったから、思ったことをそのまま書いた。「おもしろい」を「広げたい」において、誰かが「太鼓判を押す」という作業は、時間の限られた現代において必要なこと。手にとってもらえる確率が増えるのは喜ばしい。
だけれど、それがひとつのレビューとなり、まっさらな気持ちで読めなくなってしまうとしたら、「良い」とも「悪い」とも言い切れない。ん~、むずかしい。
「私は」「本当に良いと思った」ということを前提にしないと、自分の信用にも関わってくるわけで、ちょっとやそっとで勧められることでもない。おすすめする、ということは相手のお金も時間も奪ってしまう可能性がある。
ただ、どんな人にとっても「良い」なんてないけれど、それがキッカケになってそのことについて議論出来る時間が発生するのであれば、それは「意味がある」のかもしれない。
先日「あなたの書いたあの言葉が、僕は嫌いです」と言ってくれた方がいて、そのときに私はとても嬉しかった。その人がなぜ「嫌い」なのか、ということを考えていくと、その人のことをより知れるからだ。それに、そんな風に率直に言える関係を築けている、ということでもある。
あなたという存在が嫌いです、と言われたらそれなりに傷ついたかもしれないけれど、私の考え、行動、言葉、そういったものに対する意見には別に傷つかない。かといって、謝ることもしない。「あなたにとっては、嫌だったのですね」というスタンスで受け止める。
反対意見、別の角度からの意見、耳の痛い意見は、とても大事だ。自分に対する肯定の中だけで生きていくことは、怖いことでもある。ちなみに、実家や家族内では、私は全然肯定されていない。たぶん「あ、また変なこと言ってる」と思われている。そんなくらいで丁度いい。
そんなことを思いながらの月曜日でした。ではでは、今週も頑張りましょー♪
今は簡単に「よい」「悪い」「好き」「嫌い」が発信できるから、そういった声を目にする機会も増えてますね。
もちろん自分と同じ意見については「おお、わかるわかる」とか「うれしい!!」とか思うけど、反対の意見については「わかってないなぁ」「なんか感じ悪いなぁ」と感じる時と、「なるほど、そういう見方もあるのか」と感じる時があって、その違いが何か考えるのも面白いと思いました。
圧倒的に信頼、尊敬している人であればそうなりやすいけど、そこまでではない人の場合でも、普段から「自分の反対の意見も一旦は受け入れる人」に対しては、こちらも一旦は受け入れようと思います。
前も別の投稿で書いたけど、そういう人の共通点は好奇心と謙虚さを持ち合わせている人のような気がします。
・・あれ?これって、この記事のコメントにあってる?