カフェと奥行
カフェとは、様々な人が交わることで生まれる立体的な時間である。
立体的な時間とは、自分が存在している「現在」だけでなく、見えない場所で流れている「他者の時間」を想像させる奥行きのある時間のこと。
何もなかった場所に、コーヒーというアイテムが加わることで、人と人が交わるためのきっかけが生まれる。そのきっかけとなるアイテムのコーヒーを生み出し、よりよい時間が流れるよう裏方に徹するのがバリスタの存在。コーヒーを生み出すのと同時に「目に見えている時間」だけではない「他者の時間」をゆるやかに共有し、人と人の交わり地点を自然に紡いでいくのもまた、バリスタの仕事である。
年齢、職業、性別、人種、趣味嗜好などを総合的に受け止め、そっと包む立体的な時間を生み出すカフェの存在は、現代にこそ必要ではないか、と思う。
昨今において、人と人が交わる「きっかけ」となる事象があきらかに減少していることがとても気がかりだ。
見ず知らずの「他人」に話しかける機会は殆どなくなり、不用意に話しかけられる経験も減少した。自分で解決できることが増え、聞くことが憚られるような気配が漂う。カフェであっても「他者の時間」と交わるような立体的な構造のお店は減少し、お店側の求める「理想の客像」に呈さなければいけないようなお店が増えた。
お店対お客、の関係は平面的だ。それを立体的に活き活きとさせるのは「他者」の存在である。
カフェは多様である。きっちりとルールを定め、整理整頓され、その中で美しい時間を生み出すカフェがあっても、もちろんいい。それはとても価値のある時間。
だけれど、ちょっと淀んだり、濁ったりしながら、人と人が交わる都会の交差点のような、時折ぶつかりそうになりながらクラクッションを鳴らされながら渡る、そんなカフェが無くなってはいけないと思う。
酒場やバーが無くなってはいけないように、奥行きのあるカフェが無くなってはいけない。人間と人間が交わらない時代だからこそ、無くなってはいけない。
規制された一方通行だけになり、ぶつかったり、「ちょっとごめんね」と声を掛けながらすれ違う機会が減少すれば、人と人が出会う機会は減る一方。思いがけず得られるもの、学びや喜びに繋がる機会も減っていく。(傷ついたり、不快になったりすることも減っていく)
予定調和をくずされない毎日は、ストレスフリーではあるけれど、はたしてそれでいいのか、と疑問も残る。
カフェのことを考え出すとキリがない。コーヒーはもちろん好きだけれど、私にとっては「カフェ」という概念がとても好きだったのだな、と気付く。
この先、奥行きのあるカフェが求められない時代が来ないことを切に願う。
希さんの”奥行き”のお陰で、豊田市の生活に楽しいエッセンスを一つ増やすことができました!
いつも素敵な時間を提供してくれてありがとうございます!
希さんの全力のオタク街道(コーヒーの音とか)が更にスゴくなるのを楽しみにしてます〜。