不便をたのしむ
今にも舞い出しそうな曇天を、今年は何回も見上げている。
山に住んで5年。こんなに冬を堪能出来た年はなかったかもしれない。
毎朝起きたらまず、外を見る。雪は積もっていないか、道路は凍っていないか、どきどきしながらひと通りのチェックをする。少し窓を開け、外の空気に触れてみる。
昨日の残り火を潰さないようにそっと薪を焚べて暖を復活させる。ときには、20分近く消えそうな火と対峙しながら「どうか着いてくれませんか」と願いながら、懸命に空気を送り込む。着きそうになっては安堵して、消えそうになってはやきもきする。
徐々に盛り上がってきた炎の前を陣取って、朝の支度をする。パチパチパチ。ぼーっと火の音を聞きながら、その日のことに思いを巡らせる。子どもを起こして、慌ただしい朝がやってくる。彼もまた同じように炎の前から動かない。思いっきり伸びをして、ごろごろごろ。そのころには炎は陽気に燃え上がっており、立ち消えする心配はもはや無い。朝の準備にあたふたしながら、家の中の快適な温度に未練たらたらで出発をする。
我が家の冬は、朝から不便だ。暖を取るためだけに、寝起きからそこそこの労力と時間を費やしている。それから、雪が降っていたり凍結している日には、ものすごくゆっくりな速度でビビりながら運転する。ちょっとスベっては「すべった気がする!」「えー!」と言いながら、保育園までの道のりをすすむ。
山に住んでいなければ、きっとこんな必要は無いだろう。スイッチひとつで暖房をつければ、きっとこんな必要はない。その時間は、一見無駄な時間のようにも思える。そんな時間があれば、もっと他のことが出来るような気がする。だけれど、だからこそ、とびっきりの贅沢な時間だとも思う。
おしゃれな雑誌に出てきた「スローライフ」みたいなものではなくて、いつものふつうの暮らし。危険だって、つねに隣り合わせ。非合理さがところどころに滲み出た暮らし。
そんな山の冬だけれど、ときどきとてつもない贈り物をくれることがある。視界がぱあっとひらけた瞬間の、山々に降り積もった雪景色。いつもと違う幻想的なスローモーションの世界。凛とした空気に、美しさに、息を呑む。
山の冬は、不便で、不便で、不便で、とてもおもしろい。
このところ「不便益」について考える。駅前の、合理性が求められる立地だからこそ、不便でおもしろいことをやれたらいいなあ。
明日の朝は、とても冷え込む予想らしい。明日も、明日の朝を楽しもう。
珈琲が好きだと言うと、
おすすめの珈琲メーカーを聞かれる。
珈琲メーカーは使った事がないから、
分からない。
ハンドドリップは確かに面倒だ。
世の中にはボタン1つでトップバリスタの珈琲が
飲める時代になった。
毎朝お湯を沸かし、珈琲豆をガリガリ、
ハンドミルで挽き、湯温を測り、時間を測り、
湯量を測って珈琲を淹れる。
この無駄な時間が私には至福の時間。
不便=不幸ではない。