ふつうの日常を愛しむ
歳を重ねるごとに、日常への偏愛が止まらない。
ふつうの、なんでもない日々を重ねていくことが、何よりも好きだ。
昔は「イベント」や「旅行」のような「楽しいとされること」を自分も好きなのだ、と思っていた。どこかへ行くから、楽しい。面白いことをやっているから、楽しい。そういうものだと思っていた。
今は、おそらく、全然違う。
楽しさは、今この瞬間にも、目の前にいくらでも転がっている。
いつものように、お店を営むこと。いつものように、子どもと遊ぶこと。いつものように、コーヒーを淹れること。いつものように、本を読むこと。いつものように、ゆかちゃんとあれこれ話すこと。いつものように、お客さんと話すこと。
それらすべての事が、楽しい。そして、愛おしい。
多くを生産するわけでもなく、多くを消費するわけでもない。こういう人種は資本主義にとって「歓迎されない人」であるに違いない。
購買意欲を煽るSNSや広告に「No Thank You」という選択肢を持つこと。判断基準を自分の外側に置かないこと。それらは意識していないと(時には意識していたとしても)簡単に飲み込まれてしまう。
そういえば、先日、あるお店で飲食をした時のこと。通常はレジで注文し、商品を受け取り、セルフでテーブルに運ぶスタイルだったのだけれど、大きな看板に「新サービス!お席からスマホで注文してください、商品は席まで持ってきます」と新しいサービスが大きく掲げられていた。
それをみた時に、とてつもない違和感に襲われた。
その場にいるのに、会話しない。その場にいるのに、スマホの小さな画面で伝言する。人間同士のやりとりを徹底的に省く。
もちろん、言いたいことはわかる。【接触を最低限にしましょう】【人件費をかけないようにしましょう】【ミスを無くしましょう】【効率をよくしましょう】という箇所を優先して考えるのであれば、それがいいのかもしれない。ナチュラルにアプリをダウンロードさせる、という戦略であるならある意味正解かもしれない。
だけれど、そこには1mmたりとも温度が感じられない。そういう話をすると決まって「そういうお店には温度とか求めてないからいいんだよ」という意見があって、それはまあもっともなのだけれど、私が言いたいのはそういうことじゃない。お客側の心配ではない。
働く側は、そこにどんなやりがいを感じるのだろうか、という疑問をぶつけている。
働く側が「作業効率」の優先を強いられ、機械のように消費される。それが仕事だ、と言い切ってしまうような社会に未来などあるのだろうか。
活き活きとした仕事から、商品以上の「何か」を受け取り、受け取った人がまた誰かに「何か」を受け渡す。それが循環したものが「日常」であって欲しいし、それが「生きる」ということではないか。
理想論であることをわかりつつも、理想を忘れずに意識していることは無意味ではないはずだ。
私は、誰かが設定した「楽しさ」ではなく、自分が感じた「楽しさ」に忠実でありたい。たとえ、歓迎されない人種だとしても。
そうやって、ふつうの日常を愛しんでいたい。
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コメント4件
“何でもないような事が幸せだったと思う”…歌の歌詞にもあるように何気ない日常を過ごせる事が幸せな事なのでしょう
イベントや旅行、新しい車を買う等の楽しい事は事前の計画やカタログをあれこれ眺めたりする事が楽しみの大半だったりします(私の場合)
飲食店のスマホ注文システム、これはお客様の利便性向上という建前のお店の効率化のシステムに他なりません
お客様のスマホからの注文の”データ”を店員が”処理”しているという事なのでしょう
確かに効率は良くなりそうですが、やっつけ仕事みたいで味気ないですね
更に注文の品をお客様に届けるのにロボットなど自動化されてしまったら、お店(店員)とお客様との繋がりがより希薄になってしまいます
会計も席でスマホで決済!、入店から退店までお店の人と一言も話さずに外食をする…そんな時代が直ぐに来そうで怖いです
“祭り 祭り 毎日愛しき何かの 祭り 祭り あれもこれもが有り難し” これは藤井 風の”まつり”の歌詞の一部なのですが、毎日が”普通”に過ごせる事に感謝して生きて行かなければいけないな、と気付かせてくれました
“ふつうの日常”を過ごせる事に感謝
私もこの年齢になり気付きましたが、人と出会う事や孫や奥さんと一緒にいる事が楽しくて、ありがたくてしょうがありませんよ。
今は東岡崎駅の近くで毎朝掃除をして、出会いを楽しんでいます。