そこに愛はあるんか
「【合理的】や【生産的】という言葉が、どうにも苦手。」とこっそり教えてくれたその人のことが、けっこう好きだ。
なんでそんな不便なものを?というものを愛用している人や、どう考えても非効率的なことをしている人に出会うとたまらない気持ちになる。
「煙草って、良いことないのに、そこがいいんだよね」だったり、「バイクって寒いし暑いし危ないけど、たまらないんだよね」だったり、「この車、古くてすぐ壊れるんだけど、かわいいんだよ」だったり。合理的に考えたら「ナシ」なことを、それでも選ぶところに人間らしさを感じ、愛おしい気持ちになる。
反対にいえば「コスパ」という言葉が、私はどうにも苦手だ。
「コストパフォーマンスが良い」という事自体は、決して悪いことではない。むしろ企業努力の賜物なのだとは思うのだけれど、「コストパフォーマンスが良いから、この商品を愛用しています!」という言葉には、まったく愛を感じない。
それは、愛ではなく、合理的な判断ということになるのだろう。
人との関係であれば「あなたといると良いことがあるから一緒にいます」と言っているようなものかもしれない。
そこに愛はあるんか?
【自分が支払う対価に対して、より多くの見返りが期待できるもの】という基準で物事を見ることは、資本主義的だと言える。そこでは感情や情緒は不要であり、むしろ判断を狂わせる要素であるかもしれない。「ビジネス」でいえば、きっとそういう視点が必要なのだろう。
自分が支払う対価、は「金銭」だけとは限らない。「労力」かもしれないし「時間」かもしれない。
【同じ時間働くなら、楽で給料が高いほうが良い】という原理も、同質のもの。その原理の中ではおそらく「やりがい」は得られにくい。
【自分が差し出したものに対して、物質的な見返りが得られないかもしれないもの】に対して、それでもそれを行ってしまう不合理さのなかに愛はある。それは、ビジネス的ではなく、むしろ本能的。「やりがい」は、合理の中からは生まれない。
カフェ、という業態は基本的には「非効率的」で「不合理」である。決して「お金を稼ぐ手段」として、妥当だとは思わない。ただ、だからこそ、私は「カフェ」という仕事に魅了される。
お店の繁栄のために「おもてなし」や「サービス」をしているわけじゃない。ただ、今、目の前にいる人のことを大切に出来る。それ自体が、もうすでに対価になっている。
その上で、それでも継続していくために最低限のお金はもちろん必要にはなるけれど、それは「手段」であって「目的」ではない。
本能的な気持ちを優先するのか、合理的な判断を優先するのか。どちらであっても正解だ。ただ、自分に嘘をつき続けることは、いずれ破綻する。一度立ち止まって、ゆっくり考えたほうが良い。
ゆっくり考える時間をとったとしても、結果的には行きたい場所には早く到達できるかもしれない。
そうそう。
今週は、24日の水曜日は臨時でお休みします。すみません。
残りの8月も頑張りましょー♪
不便な車大好きでした
大昔にラリーをやっていた頃に乗っていた車はロールケージ(ひっくり返った時などに車体が潰れるのを防ぐ鉄で出来たジャングルジムみたいなもの)のサイドバーを跨がないと乗り込めない、フルバケットシートはリクライニングしない、パワーウィンドウ無し、フロアにカーペットは無く鉄の床、後席は取り外して二人しか乗れない、クラッチは重く半クラッチの範囲はミリ単位と快適性を全く無視した仕様でした
夜中に未舗装の林道に走りに行ったり、雪が降れば茶臼山へ雪道を走りに行ったり、ラリーに興味が無い人にとっては、それが何になるの?って感じですよね
コスパが良いものって実用品とかならそれで良いのかもしれません
自分の好きな事や趣味の物は「良い」物が欲しくなりますね
例えば釣りのリール、見た目がカッコイイってだけで10万円のを衝動買いした事もありますよ
それはそれは大事に取り扱うってもんですよʬ
勤めている会社も「効率」・「生産性」を高める事に注力していた
本来なら過去に自分達が行った工事の恥ずかしい手直しなのに「設備保全」として作業して親会社から代金を頂く(少ない作業で効率良く単価が高い)
活き活き人間企業と謳っているのに相談も無しに度重なる配置転換
色々な細かい事が重なって嫌になってしまったのだろう
長い事立ち止まって来たけれど、もう少しだけ「休憩」して自分に嘘の無い様に生きて行きたい