傷跡にふれる
「曲がらないように、傷がつかないように、と障害物を取り除かれてまっすぐに育った木は、使いやすいから建設資材にはなれるけれど、盆栽にはなれないですよね。」
先日、そんなことを話してくれた人がいた。
誰かが社会にほんのすこしの毒を垂らす。それと出会った別の誰かが、そこに「なにか」を感じて、それを修復しようとして、自らの形を変える。その修復の仕方こそが個性である。
それを聞いて、納得することが多分にあった。
ちょうど読んでいた本が「傷を愛せるか」という本だった。
負った傷も、負わせてしまった傷も、気づかず追い詰めてしまった傷も、無かったことには出来ない。だから、せめて。認め、受け入れ、そっとなぞる。好奇の目からは隠し、それでも恥じずに傷とともにその後も生き続ける。
弱いことを認めた上で、受け入れ、それと共に生きていく。「傷を抱えるすべての人に」という一文で締めくくられるこの本の言葉に、何度もこみ上げてくるものがあった。
傷を負わずに生きていくことは出来ない。もし出来たとしても、それが「良いこと」ばかりであるとは限らない。受動的に負った傷は、しんどくて、悲しくて、何年経ってもときどき濁流のように押し寄せてくる。
そこから目を逸らしたいから、攻撃したり、抹消したり、破壊したり。そうして必死に自分の身を守る。それは決して悪いことではない。
だけれど、それは「自分を守るための本能なのだ」ということには、自覚的であったほうが良い。自覚した上で、修復の痕跡として、その後を生きていくしかない。
自分の弱さに無自覚であることは、誰かの弱さに対して苛立ち、許容できない気持ちを生む。
自分の弱さが生み出した「修復の証」を見つけたとき、恥ずかしくて、醜くて、かっこ悪くて、目眩がした。でも、きっと、これは「私が私になっていった」という痕跡で、隠すべきものではなくて、だからといってわざわざ披露することでもなくて、これからもただふつうに、共に。
そっと傷跡を愛していけばいいのではないか、と思ったのだった。
曲がりくねった性格は、けっこう盆栽には向いているのかもしれない。決して「扱いやすい」とは言えないけれど。「それもおもしろいね!」と、言い合えるのであれば、それもまた良のかもしれない。
誰かの修復の痕跡に触れたとき「あなたがあなたになっていった証」として、それがどんな傷跡であろうともそっとなぞれたらよかったのに、と、今は思う。
負った傷も、負わせてしまった傷も、気づかず追い詰めてしまった傷も、無かったことには出来ない。なかったことには出来ないから、せめて、これからは。それしか出来ないし、それで良いのかもしれない。
それが、年を重ねる、ということなのかもしれない。
今週は、14日の金曜日はおやすみです。少ない営業日、大切に過ごしたいと思います。今週も、それぞれのフィールドで、頑張りましょ◎
なるほど、人間も盆栽の様に「困難な事」が多い方が人として魅力的になれるのかもしれませんね
全てを受け入れる事で自分自身を愛せる様になれるのだろう
先日、藤井風の新曲「grace」が発表された
「あたしに会えて良かった やっと自由になった」って歌詞がある
自分自身に出会う、今の自分を認めて自分を愛する
このブログで伝えたい事と似ている気がします
藤井風のgrace、ぜひMV観てみて下さい