1月の予定
もう気がつけば年末。2023年1月の予定です。
相変わらず、火水木金は7時ー16時・土曜日は10時ー16時(土曜日はときどき営業でときどき休み)の予定です。
2022年は、いつもよりちょっと濃い1年になった気がします。毎年変わらず、歩く速さはゆっくりで。また、年内の営業が終わったらまとめを更新しようかなと思います。
先週末、大阪の西成区に行ってきました。なんで西成なのかというと「当たり前の枠の外側」を知りに行くため。以前取り扱った書籍「アイム」の関連や、その後に出会った「ルポ路上生活」という本の実態を目で見たかったから。
自分たちが住んでいる場所の「ふつう」は本当に普通なのか?「当たり前」ってなんなんだろうか?自分の目にしているものが世界のすべてではない。そんなことを子どもにも感じてもらえたらいいなという意味も込めて。
「居酒屋で覚醒剤を売るな!」
「カフェのふりしてます」
本末転倒
「物件を放置することを禁止する」
いろんな人が住んでいる、ということは、いろんな人が住めている、ということ。
何かしらの事情がある人もいる。(もちろん、ない人もいる)
「何かしらの事情があるのかもしれない」という前提の中で、ゆるされている。いや「ゆるす」も「ゆるさない」もなく、ただそのままに存在している、のかもしれない。
ただ、よくよく考えてみると、程度の差はあれど「何かしらの事情がある」のは、どの街だってどの人だって、本当は一緒なはず。
心に何か抱えている人もいる。目には見えない障害がある人もいる。人とは違う感性に戸惑っている人もいる。癒えない傷を抱えている人もいる。生まれた時から「変えられない」ものを抱えている人もいる。
他人から見たら些細なことだとしても、本人にとっては「生存」に関わる問題である事もある。
私たちは目に見える情報で相手を判断してしまいがちで「何かしらの事情があるかもしれない」という前提をついつい忘れてしまう生き物だ。
ホームレス状態の人や、生活を保護されている人に対して「あの人は頑張っていない」「自業自得だ」などという言葉が飛び交う社会に生きている。頑張るほど、頑張っていない人を責めたくなる気持ちも、人間の心理として湧き起こるのかもしれない。
だけれど、本当にあなたの見ているものが「相手のすべてなのか?」ということは、常に意識していないといけないのではないか。
見えていることしか存在しない、などと言い切れるはずはない。
「存在するかもしれない向こう側の事情」を想像してみたら、必要以上に誰かを責めることなどできるのだろうか。
そんなことを思った大阪旅でした。
年内の営業はあと2日。今年も良き日々になったことに、心から感謝を込めて。
有名な観光地などではコンビニや看板も地味で控えめに、電柱や載っている変圧器さへ緑や茶色に塗装され、自然に溶け込ませようとしている
しかし大阪西成区は歩きにくい歩道や主張の激しい注意喚起の張り紙がそこらじゅうに?
そこに住んでいる人達は主張の激しい張り紙などを私達が普段から何気なく見ている道路標識の様に「自然に溶け込んだ存在」と捉えているのだろうか?
(慣れていない)自分にはネガティブな「情報」を無理やり見せられている感じがとてもキツく感じる
ホームレスが多い町というのは職に就きにくいのか、ホームレスが過ごしやすい町なのか、どちらもなのか、また他の要因もあるのだろう
頑張りたいのに頑張れない、一歩踏み出したいのになかなか出来ない、そんな自分と戦う日々…
戦わなくても良い時間と空間を与えてくれてありがとう