生きる土壌をえらぶ
すっかり遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!今年も宜しくおねがいいたします。
お正月、いつも以上にのんびりとしてました。そろそろ通常モードに戻していこうと思います。
いつ頃からだったか、自分の種と合わない土壌で生きることを辞めました。
自分が持って生まれた種の種類は変えられない。たんぽぽは、バラにはなれない。だから、たんぽぽはたんぽぽに合った場所で、活き活きと咲けばいい。
そうするようになってから「辛い」と思うことは格段に減りました。
よく「他人は変えられない、変えられるのは自分だけ」という言葉があって、それはたしかにそうだと思うのだけれど、あれは自分の種自体を変えろ、ということではないのだと思います。
自分の種自体は変えられない。だけど、どの場所で生きるかは自分で選べる。自分の種を活かす場所を見つけろ、見る角度を変えろ、ということなのではないかと思います。他人は変えられない。自分の種も変えられない。だけれど、自分の行動や思考は変えられる。
自分の種と合った土壌で生きる。それがけっこう難儀なのは「私はなんの種なのでしょうか」ということを、自分自身が知らないということ。自分で気付くのは実は難しい。
生まれたときから、見た目が「たんぽぽ」であれば分かりやすいのだけれど、良いのか悪いのか人間はそういうふうにはなっていない。
だから、青春頃からずっと「私はなんの種なのでしょうか」と自分に対して問い続けなければいけない。誰も教えてはくれない。いや、むしろ、誰にもわからない。
「バラ」を求めて育てられても、種が「バラ」ではなかった場合、バラは咲かない。親の要望通りにはならない。なんで私にはバラが咲かないんだろう?と責めたところで、解決はしない。一生懸命バラを咲かそうと思えば思うほど、自分がバラではないこと自覚してしまう。
「埋め込まれた常識」や「社会の規範」、「虚勢」や「疑心」や「不安」など、成長過程で吸収してきたさまざまなものが障壁になって「本当の自分の種」を、より一層見えにくくさせている。
それらの偽りを少しづつ脇へ避けて、芯に近づこうとしないと自分の種はわからない。大切なのは、身につけていくことよりも、削いでいく作業ではないか、と思う。それは素直になるということでもあり、「大人としての自分」を一旦脇へ置いておく作業でもある。
とはいえ、別に自分の種などわからなくても、生きてはいける。それで良ければ、それがいいのかもしれない。どんな人も必要以上に苦しまずに生きていけるのであれば、それがいい。
私が人と対話したいな、と思うのは「その人はどんな種なのか」を知りたいという欲求があるからだ。そして、いろんな種を垣間見ることで、別の誰かのしんどさを理解したいと思ったときのヒントになるからなのだと思う。
そしてもうひとつ思うのは、「あなたがなんの種であるのか」を知らないまま(知ろうともしないまま)アドバイスしてくる人のアドバイスは聞かなくてもいい、ということ。
あなたが「チューリップ」であるのにもかかわらず「ひまわりの育て方」をアドバイスされたところで、それは有効ではない場合が多い。あなたの種を見定めた上で、それに適したアドバイスをしてくれたのであれば、それは有効であることは多いけれど。
「アドバイスは聞くな」というアドバイス。このアドバイスさえも聞き捨てろ、というアドバイスにて、締めたいと思います。
そうそう、いつだったか「コーヒーをドリップするのはお花の水やりみたい」と言われたことがあります。誰かの種を見つけたときに、一緒に水をあげることが出来る仕事なのかもしれないな、と思うと嬉しくなります。
今年はどんな人と出会えるのかな。楽しみです。
あらゆる人にとって穏やかな一年になりますように。2023年もよろしくお願いいたします。
寒中見舞い申し上げます
街中から聞こえていたお正月っぽい音楽もなくなり、「通常」が戻って来ましたね
「他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」とも言われます
「自分の行動を変えれば未来は変えられる」って事で合ってますよね?
何十年も生きてきて、まだ自分が何の種かわかっていませんが、何処かで小さな花を咲かせられたら良いな
なかなか芽が出ない私の種にも水やりありがとう
あ、我が家ではドリップコーヒーを淹れるみたいにドリップポットで観葉植物に水やりしていますよʬ