光の味わい
冬の晴れた日。時間でいえば、11時半前後。
私にとっての、特別な時間。
ビルの間から差し込む光が、お店の左端を照らし始め、ゆっくりゆっくりと、やがて中央付近まで移動する。
そこを焦点に、揺れ動く液体をそっと置く。
ときには、コーヒーを淹れながら。ときには、ただひたすらに水を注ぎながら。液体という流動的なものを手段として、差し込む光をただただ味わう。
光は、照らした先のものの見え方を一変させる力を持っている。それはスポットの当て方次第で、主役が変わるということでもあるし、強く当てた光の裏側を見えにくくさせる働きもある。
光があたっている面が美しい。そして、光があることによって影が創出され、その影もまた美しい。
ただ、忘れてはいけないのは、光があたった途端に輝き出したように感じるものだって、本当は光があたっていないときだってずっとずっと美しかったはず。お水はいつだって、同じように美しい。忘れてしまっているだけなのだ。
あのとき、脳内からなにかの成分が、じわじわ、いや、どくどくと流れ出てくるのを感じる。
そこに言葉はいらなくて、ただ美しさと愛おしさに浸っていればいい。
幸福に包まれているそのとき、言葉が介在する余地はないのかもしれない。
ざわざわと思考している脳内の声が消える。
没頭、無心、無常。あのときの、あちら側にちょっといっちゃってる感じ。
そういう静寂の中に、一緒に紛れ込んでいるあの「幸福」を知っていれば、どこか遠くに幸せを探しに行くことなど、しなくてもいいのかもしれない。
だってそれは、いつでも自分の中にあるから。
「美しい」も「幸せ」も、本当はいつだってすぐそこにある。ただ、忘れてしまっているだけ。
探しに行くよりも、目を瞑って、深呼吸して、思い出すだけでいいのかもしれない。
冬の朝の通勤時間帯のベンチは極寒ʬ
しばらくして、ビルの陰からお日様が姿を見せるとほっとしますね
カップに注ぐと真っ黒に見える深煎りのコーヒーも、陽が差し込むサーバーの中で「キラキラと美しく透き通った黒」として目に映る…かけがえのない時間なのですね
「美しい」も「幸せ」も「神様」もすぐそばにある(いる)事を思い出さなければ!