新幹線みたいな人
駅前でコーヒーを淹れていて面白いのは、新幹線みたいに生きてる人と、歩きながら生きてる人と、どっちの人の速度も体感できるところかもしれない。
私が同じ場所に留まっている間に、コーヒーを飲みながら走り抜ける人、挨拶しながら寄り道する人、少しの期間滞在していく人、速度は様々だ。
その人その人のスピード感になるべく合わせようとするけれど、新幹線のように急ぎたい人にとっては、STREET COFFEE&BOOKSはちょっとペースを乱してしまうかもしれなくて、そこは「申し訳ないなあ」と思いながらも、無理な最速の要求は断る勇気を持っていたいと思う。
なんの為に、私たちはこんなにも日々急されているんだろう?と思うことがある。
「別に急がなくていい場面でも急かされる」ことが多すぎる気がする。
人には、それぞれの速度がある。
お店は、目の前の人の速度を読み取りながら、一緒に時間をつくっていく場所だ。そのテンポを読み取って、双方がしっくりきたときに、心地よい時間を生み出せる。
最近、世の中が効率化をするあまり、自分の速度(効率化した最速)を周囲にも求めてしまう人が増えているような気がする。ゆっくりした時間を生きている人を待てない。待たない。
本人がただ急いでいる分にはいいのだけれど、いくら自分が急いでいたとしても、他人の時間は不可侵領域。その節度を守れる余裕は残しておきたい。
お店は、急いでいる人にはなるべく早く提供してあげたい。だけれど、だからと言って、その前に並んでいるお客さんを「急かしていい」という話にはならない。
新幹線で生きている人には、歩いている人が見えなくて、悪意なく踏みつけてしまうことがある。悪意がないから仕方がないのだけれど、せめて踏んでしまったことには気付いた方がいいのではないか、とおせっかいながら心配になる。
とはいえ、遠くまで行きたいならば、やはり新幹線に乗った方がいい。歩いていては今日中に九州まで行くことは不可能だが、新幹線に乗れば可能になる。
目的地と到着時間がはっきりしているなら、その手段として早い乗り物に乗ることが必要になる。
そもそも、なぜ私たちの社会はこんなに急いでいるのか。
そんなに急いだ先に持て余した時間で、何をしたいのか。
持て余した時間で「ゆっくりしたい」のであれば、最初から「ゆっくり生きる」方が整合性が取れているのではないか。
もはや「急ぐ」というよりは「無意味」な時間を我慢できない、と言った方が合っているのかもしれない。
レジで小銭をやり取りする「無意味な時間」、ETCで並ぶ「無意味な時間」やオンラインオーダーで一瞬で受け取る「効率の良さ」、これからも「無意味の排除」はどんどん加速する。
無意味の排除、無価値の排除が、他人を踏みつけていることに気がつかない社会になっていくのであれば、それはとんでもなく、まずい。
決して新幹線が悪いわけじゃない。新幹線に乗っている人が悪いわけじゃない。ただ、そのすぐとなりをゆっくりお散歩している人の存在を、無いことにはしないでほしい。
間合いをとって、その「間」でお互いを許容する余白をとる。物理的にも、心理的にも。
全員が新幹線に乗っているわけじゃない。そして、乗りたいわけでもないのだ。
(ちなみに、本当にどうでもいいことなのだけれど、私の名前は「のぞみ」である。私が一番新幹線みたいな人じゃん、と、心のなかで小さなツッコミをいれる。)
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コメント5件
w(^ o ^)w
ふふふ。
何度読んでも、「落ち」がいいですね~(^^)
新幹線みたいな人。なりたくないな〜。
急いでいる人、そうでない人、様々な人が街を行き交っている
エスカレーターに乗っていても「ちょっと避けて」と言いたげに、こちらに視線の圧力を効かせて隣を走り抜ける人までいる
いや、他人に気を利かせて避けさせるなら階段使って!と言いたくなる
人混みの中を猛スピードでスラローム走行する自転車なんて、「人に当たらない様にコケろ」と思ったりʬʬ
ACのコマーシャルで老人がレジで「支払いが遅くてごめんなさいね」と言うのを「ゆっくりで良いんだぜ」みたいに思いやる「寛容ラップ」で応える…
「たたくより、称えあおう」なんてキャンペーンやってたね
のぞみ、ひかり、こだま、「のぞみ」が一番時短で早く目的地に着くけれど、三河安城にも停まる各駅停車の「こだま」も、「のぞみ」と最高時速は同じ285km/hという事実
「こだま」の良さは長い停車時間を活かしてホームで駅弁買える事ですʬ