身体に聞いてみる
なにかの判断をしなければいけない時、わたしは身体に聞いてみることにしている。
誰かになにかをお願いされたとき、約束をするとき、仕事の話をもらったとき、選択を迫られたとき、頭で考えても答えが出てこないとき。そういうときは、身体に聞くのが一番正確だと思う。
心の中で自分の身体に問いかける。すぐには答えが出ないから、身体症状が出るのを待つ。ちょっと時間が必要な時もあるけれど、辛抱強く待つ。
そうすると、おのずと答えはやってくる。
心がワクワクしてくる、居ても立ってもいられなくなる、そんなときは身体がGOサインを出している。
反対に、気持ちが沈んでくる、頭が痛くなってくる、不安になってくる、そんなときは身体がNOと言っている。つまり丁重にお断りする。いくら金額が大きな仕事でも、付き合いの上で必要な約束でも、致し方ない。
私しか私の気持ちをわかってあげられないので、私が私を尊重するほかない。
移動販売をしていたとき「好きなことを仕事にした方がいい」と言い続けていて、その根本は今も変わっていないのだけれど、今は「やりたい!」といっている人の背中を無責任には押せなくなってしまった。
なぜなら、その人が本当にそれをしたいのか?身体がワクワクしてしまっているのか?あるいは【何者かにならなければ自分という存在を認められない】と思い込んでいるが故の「やりたいことをしなきゃいけない!」なのか、よくよく聞いてみなければわからない、ということに気が付いたから。
本当にやりたいのであれば、私に相談する前に身体が勝手にアクションをしているはずで、「コーヒー淹れたことないんですけど、カフェをやりたいんです」と言ってる時間があるのであれば、コーヒーをまずは一杯淹れてみている気がする。
道具とかないし、資格とかないし、技術もないし、資金もないし、時間もないし、と言っている間に一杯でも多くのコーヒーを飲みに行った方がいい。
その人の口から出ている言葉と、深層心理が乖離していることもあるのではないか?と疑問が湧いてきてしまう事がある。ちょっときつい言い方になってしまうかもしれないけど、決してそういう人を責めるという話ではなくて「あなたが満たされないのは、本当にやりたいことがやれていないからですか?」「もしかしたら、向き合うべきところが他にあるのではないですか?」という内面への問いかけの提案を先にする必要があるのではいか、と。
何者にもならなくていい、存在しているだけでいい、価値なんて生み出さなくてもいい、サボっていてもいい、生きているだけでいい、頑張っていようが頑張っていなかろうがどちらでもいい、生産性があろうがなかろうが自分という存在を肯定する、そう根底の上での「やりたい!」なのか。
「今の」自分では価値がない、と思い込んでいるが故の「やりたい!」なのか。
二つは、表面上の言葉だけみたら一緒なのだけれど、大きく異なる。
今の自分では価値がない、と思い込んでいるが故の「やりたい!」であるならば、えいっと背中を押すのは命綱がないバンジージャンプかもしれなくて、まずはその人の存在自体を徹底的に肯定するところからはじめたい。
「今の自分では価値がない、と思い込んでいるが故のやりたい!であると本人が自覚している」のであれば、自分を肯定する手段としての「やりたいことをやる」という選択を応援する。それは命綱を確認しながらおそるおそるロープを降りていく作業に似ている。
私たちは気がついたときには資本主義の中に放り出され「価値があること」が大切だと思わされてきた。けれど、本当にそうなのだろうか。「価値があること」は同時に「価値がないこと」を生み出す。それは「価値がある人」が「価値のない人」を線引して糾弾する事態になりかねない。
価値があろうとなかろうと、同一上の「事象」に過ぎない。
すこし前に、息子がしょんぼりしながら「ママを喜ばせたいのだけれど、その方法が思いつかない」と嘆いていたことがあった。5歳になったばかりの子どもでも「相手を喜ばせなければいけない」というニュアンスの発言をしたことに胸が詰まり「いま君が呼吸をしているだけで嬉しい」と伝えた。
また別の日、「ご飯おかわりする?」と聞くと「おかわりするのと、しないのと、ママはどっちがうれしい?」と聞いてきたので「まだ食べたかったらしたらいいし、もういらなかったらしなくていい、ママはどっちでも変わらないよ」と答えると「本当はもうおなかいっぱいだったんだよね〜」とほっとしていた。
「好きなことを好き」だと「やりたいことをやりたい」と言えるように育ててきたつもりだったのだけれど、そんなことはなかった。こんな小さなときから「相手からの反応」を気にして生きている。
こちらの無意識な些細なリアクションを読み取っているのかと思うと、愛をもとめる人間の構造に驚く。赤ちゃんは生まれた瞬間からはひとりでは生きていけない。生存には誰かしらの愛が必要だ。本能的に人間は愛を求め、それを満たそうとする。生きのびるために。
時間が経つにつれ、自分で自分のことを愛せるようになれば、他人からの必要以上の称賛や承認は必要なくなる。自分で愛を補える。
ちょっと話は飛んでしまったのだけれど「どうしたらいいかわからない」ときには、頭で考えることを一旦辞めて「身体に聞いてみること」をおすすめします。
きっと、身体からの何かしらのリアクションがかえってくるはず。
あなたしか、あなたの本当の気持ちはわからない。どうにか、こうにか、自分の気持ちを聞き出す手段が見つかりますように。
「真実なんてもんはとっくのとうに、知っていることを知らないだけでしょう」
↑これは藤井風の「何なんw」の歌詞の一部なんだけれど、「身体に聞いてみる」に通じるものが有る気がします
他人に言われて動き出すよりも、自らの力で動き出す事が出来たら迷いも無くなるのだろう
5歳の小さな子どもでも大人に気を使い、愛されたいと願っているのですね
ある土曜日、コーヒーを飲み終えて帰る際、つむちゃんに「どっちに行く?」って聞かれた
何でそんな事聞くのかな?と思いながらもスタジアム方向を指差し「こっちに帰るよ」と伝えると「見えなくなるまで手を振るね」と返ってきた
いや、おじさんでも「キュン♡」ってなるよʬʬ
ちょっぴり幸せな1日となりました