等価交換の向こう側
いつもお店に寄ってくれるおばあちゃんがいる。
そのおばあちゃんは、毎日、缶コーヒーを2本持ってお散歩に出かけるという。
疲れたらどこかに腰掛けてその缶コーヒーを飲み、ときどき、誰かにその缶コーヒーをあげたりもする。
もらった人は「ありがとう」と、いったり言わなかったりし、ときどき「缶コーヒーのお礼」といって、なにかをくれたりするのだという。
おばあちゃんにとって、その缶コーヒーはお金であり、飲みのものであり、言葉である。
自分から贈ることもあれば、誰かへのお返しでもある。
、、、
その一連の話を聞いたとき、とてもびっくりした。
おばあちゃんは、この現代に「お金」というものを利用せずとも、目に見えない「なにか」を循環させている。それってとてもすごいことではないだろうか。
それは「等価交換の向こう側」といえるのではないか。
お金というものが誕生して以降、私たちは「等価交換」にすっかり慣れてしまった。
100円の商品を、100円を出して購入する。そこには多少の差異は存在しない。決められた金額を出せば購入できるし、足りなければ購入できない。一切の余白を許さない。
同じ価値を「交換」する。
「交換」はとてもわかりやすく、負債感や気負いもなく、その都度精算される。それはとてもスッキリとしていて、くっきりとしている。
ただ、この価値観だけに染まってしうと売買の時だけではなく、プライベートでも「交換」の原理に基づいた視点しかなくなってしまうような気がする。物理的にも時間的にも心理的にも、余白や隙間はなくなってしまい「あそび」に対して「不要」の烙印を押してしまう。
この視点だと、何かを受け取るには、同じくらいの価値の何かを差し出さなければならない。差し出すものがなければ、受け取ることは出来ない。差し出すものがなくなったとき、人と人はつながりを断絶され、孤独に陥る。
資本主義の促進は、それを加速させる。
おばあちゃんの「物々交換」は、その概念を壊し「自分のできること」を差し出すことで、ときどき受け取ったり、受け取らなかったりしながら、「なにか」を循環させている。それは、物であって物でないかもしれないし、見えるようで見えないものかもしれない。
これから自分たちが生きていく社会を、どうしていきたいか。どんな暮らしをしていきたいのか。それは、自分たちの日々の行動によってつくられている。
心の余白や隙間をどうやってつくっていくのか。それを考えることは「不要」ではない。けっこう大事なことだったりするのではないか。
あのおばあちゃんは、とても大切なことを教えてくれてるような気もする。
おばちゃんがお店にやって来て店主と話しているのを見ていると「平和だな」っていつも思う
いや、いつでも店の前の空間は平和なのだけれど、より「やわらかい雰囲気になる」という感じだろうか
等価交換の世の中で物々交換、いや、交換ですらない「なにか」を循環させているんですね
おばちゃん、会うたびに「笑顔と平和な時間」を頂いています
ありがとうございます