珈琲を淹れるように
コーヒーを淹れる。
わかっているようで、わからない。知れば知るほど、分からない。
永遠に「わかった」という日が来ないものに対して、日々向き合う。
「わからないもの」に対して、理解しようとする営み。それが「尊重」ということなのだとしたら、コーヒーを毎日淹れることは、コーヒーを尊重すること、といえるかもしれない。
われわれの「わからないもの代表」は、おそらく’’他者’’である。
「相手の気持がわからない」からこそ、理解しようと向き合い、わたしたちは他者を尊重できる。
相手の気持が手に取るようにわかる、などと思い始めたら、それはいつのまにか修復不可能な溝になるかもしれない。
「わからない」からこそ、想像して、見守って、許容して、尊重する。
あなたは、なぜそう思うの?そう感じるの?と、理解しようとするプロセスを蔑ろにして、「相手のことを大切にしている」などというのは、欺瞞にすぎない。
相手のことに興味を持ち、理解しようとするプロセスは、相手が「自分自身を尊重すること」への道のりでもある。
「あなたは、なぜ悲しいの?」と聞かれた時、聞かれた側は”なぜ悲しいのかわからない自分”に対して、向き合うきっかけとなる。「なぜ、私は悲しいのか?」と自分に対して矢印を向けることは、「わからない自分」を、想像して、見守って、許容して、尊重することでもある。
わたしたちが「わからないものの代表」が”他者”だとしたら、本当の「裏ボス的なわからないもの」は”自分自身”かもしれない。
自分のことを尊重する、とは、「わからない自分」を理解しようとする営みだ。何年も何年も、自分に向き合い続けたって、すべてを理解することなどおよそ不可能で「なんかわかんないけど、そう思う」とか「なんかわかんないけど、そうしちゃう」とか”なんかわかんないけど”は常に湧き出てくる。
自分自身のことを理解しようとする営みを蔑ろにして、「自分のことはすべてわかっている」と思った時点で、自分を尊重することからは、かけ離れる。
相手を尊重することは「相手に与えること」ではなく「相手が自分自身に与えることを誘発すること」でもある。
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える、という表現に近いかもしれない。
コーヒーの「わからなさ」に向き合うように、他者の「わからなさ」に対しても向き合い、自分自身の「わからなさ」に対しても向き合い続ける。
それが、きっと「尊重する」ということなのだろう。
「わからないものの代表は、おそらく他者」、で思い出したのが最近観た映画だ
「僕は他人がわからない、だからわかるように自分を変えたい」という主人公や、肉体が有るから暴力が行使される→だから「暴力の無い世界を作りたい」→→「暴力の根源である肉体を無くし、魂だけの理想郷を目指す」
その世界は「自分を全てさらけ出し、他者を完全に理解出来る素晴らしい世界」だ、と説明する兄に対し、「そんな世界は人間が自我を保てない地獄よ」と反論する妹その後、兄に対し「他人の心が読めない事を恐れないで」とも言っている
わからない事をわかろうとする事の連続が人生なのかもしれない