6月の予定
6月の予定です。
いつも通り、火水木金7時ー16時、土10時ー16時です。
しとしと雨のお天気が続きそうですね。しとしと雨の中のドリップは、けっこう嫌いじゃない。落ち着く時間だったりします。
最近「涙」のことについてよく考えます。
涙って、なんなんだろう。人前で泣く人、泣かない人、ひとりのときに泣く人、悲しいときの涙、悔しいときの涙、嬉しいときの涙、想いが溢れてしまった涙、いろんな涙があります。
ちなみに、私は人前でもかまわず涙を流します。誰かの悲しかったことを聞いている時、大きな優しさに包まれた時、不甲斐ない時や、悔しい時。(ちょっとは我慢したら?と思われそうなくらい、普通に泣きます)
涙は生理現象の一部。自分ではコントロール不能な存在、というポジションに置いているのだと思います。
先日「泣いて吐き出すのは弱いやつのすることだ」と言われて、悲しんでいる子がいました。世の中にはそういう価値観があるのかということを知り、びっくりしました。
泣いて吐き出すのは弱いやつ?そんなはず、あるわけない。
私にとって”泣いて吐き出すのは弱いやつ”という言葉は、”お腹が空くのは弱いやつ”、と言っているのと同義語に聞こえる。(なんせ生理現象なので)お腹が空いたのを精神力で耐える。それをし続けていたら、やがて空腹は感じなくなるかもしれない。それはそれで僧侶のようでいいのかもしれないけれど、他人に押し付けることではない。自分の中の”自分”に押し付けることでもない。
行動に、無意識に「強い」や「弱い」のジャッジが入っている。そうやって教えられてきたのかもしれないし、その人が自分を守るために築いてきたものかもしれない。それはたしかに、育つ過程でそういう側面もあったのかもしれない。幼いときの自分が、自分を必死に守ってきた言葉であれば、愛おしとさえ思う。
だけれど、大人になった今、本当にそうかな?と、無意識のジャッジを疑ってみてもいいのかもしれない。
問題なのは「無意識のこと」は、疑うタイミングがほとんど無く、自分一人では気が付かないことが多い、ということ。
だから、わたしたちは人と対話したり、本を読んだりして”他人のこころ”に時々触れる必要がある。
他人のこころに触れることで、相手の価値観を知り、そこに”違和感”を感じたときには、自分の価値観を知ることにもなる。
”だから、あのときあなたはそう思ったんだね”、”だから、このときわたしはそう感じたんだ”
そうやって、少しづつ他者を通して世界を理解していく。その過程をすっ飛ばさぬよう、ゆっくり日々を生きていきたいと思う。
6月も、頑張ろうね。よろしくお願いいたします。
今月もMax営業ありがとうございます
梅雨に入り雨の日の営業も多くなりそうですね
雨の音しか聞こえず、「周りの雑音の入って来ない外界と切り離された感」もなんだか楽しそうですね
「泣いて吐き出すのは弱いやつがすることだ」、それを言った方は昔に自分も誰かに言われて、自分の中でそれは正しい事だと納得してしまったのだろうか?
小さな男の子が転んでしまった時などに「あなたは男の子なんだからそれ位の事で泣かないの!」と母親に言われてるのを目にする事があるが、男の子だって転んで擦りむいたら痛いし泣きたいよな、っていつも思う
それと同じように「泣いて吐き出すこと」も誰もがやって良い事だと思うよ
「泣いて吐き出すこと」が許されない世界があるのなら、それこそ泣きたくなる…
「泣いて吐き出すこと」でその人が楽になるのなら、いくらでも話しを聞いてあげたいし、なんなら一緒に泣きたいと思ってしまうʬʬ