お金の地位を下げる
シェアマネー付近の動向をみていると、おもしろいことに気付く。
先日、シェアマネーの小皿の中に「ユーロコイン」を入れていってくれた方がいた。外貨になった途端、「お金」という生々しさが軽減するのか、気軽に手にとって眺めてくれる人が増えた。
日本の小銭のときには「触っちゃいけない」という空気が漂っているのに、自分たち守備範囲外になったとき、それは「もの」のように扱われる。ただし、ユーロだって『価値を知っている人』が見れば「お金」であることに変わりはない。
価値を知っているときには「さわっちゃいけない」になるのに、価値を知らないものは「気軽にさわれる、軽く扱える」になる。認識の違いが、扱い方を変えている。
この違いは、なんだ、、?
もう一つは1円玉。
「1円玉なんか入っていたって意味ないじゃん」と無下にされることも多い最も小さな単位の小銭。
でも、本当にそうだろうか、、?1円玉だって、意味がなくはない。1円玉をいくつか集めれば、何かは買える。(ただし、一度に大量に使用することはできない場合が多い)
ATMや銀行における小銭の取り扱いに、手数料が発生するようになった途端、1円玉は「意味を消された」(両替手数料のほうが高くなってしまうため)
価値も意味も、無いに等しい、ということに”されてしまった”。自分側の変化ではなく、環境要因によって。
私達の価値判断は、なんといい加減なのだろう、と思う。
価値ってなんだろう?それは「お金の基準」を採用した場合、外側の要因によって決まる。例えば、需要が供給を激しく上回る場合、それは「価値が高い」と判断される。反対に、供給の方が上回っている場合、「価値が低い」と判断される。それによって金額は決まる。
「お金の基準」を採用しなかった場合、それは自らの主観によって決まる。世間の基準を採用しない価値判断、ともいえる。たとえば、子どもが描いてくれた絵などは、それに値する。道に咲いている花や、買うことのできない人間関係なども、自らの主観によって価値は決まる。基本的に金額をつけられないものが、このフィールドにあるかもしれない。世間的にみたらなんてことないもの、でも、自分にとってすごく大事にしているものも、こっちに入るだろう。
本当に大切なのって「世間やお金の基準を採用しない価値判断」なのではないか、、?と、最近考えている。
自分の主観によってなされた価値判断。お金に由来しない価値判断。言い方を少し変えれば、お金というアイテムを絶対基準に置かないという意味において”無下にする””お金の地位を下げる”ともいえるかもしれない。
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「私には価値がない」という言葉に時々出会う。
そのとき、あなたの言っている「価値」とは、前者の「世間の基準」に由来した価値判断なのではないだろうか。
なんにも出来ないし、なんにも持っていないし、誇れることはないし、誰かより勝っているものが何もない。その価値判断をしている限り、常に誰かと勝負していなくてはいけないし、成長していなくちゃいけないし、頑張っていなくちゃいけない。
後者の「自分の主観による価値判断」は、勝負とも、勝敗とも無縁の世界であるともいえる。なんにも出来なくても、なんにも持っていなくても、誇れることがなくても、勝っているものがなくても”自分は自身にとって価値がある”と言い切っていい。だって、どう考えたってそうなのだから。
外側の要因によって自分の価値を定めている以上、そこに幸福はないかもしれない。なぜなら、外側の要因は、社会の流れや情勢によって常に変動するものだから。
外側の要因に左右されない価値判断。それを、ほんのちょっと意識して、生活してみようと思う。
どう考えたって、すべての人が「自分には価値がない」はずがないのだから。
ユーロコイン、当日のレートで支払いに使っても?…ʬ
先日、嫁さんが海外旅行に行く前にチップ用にユーロコインに両替してたな
昔フランスに行った時もチップ用に小銭を沢山持ってたのを思い出したよ
観光地のトイレの入り口にもチップ入れる箱が置いてあったな
1円玉にも当然価値はある、1円でも足りないと買えないからね
キャッシュレスの時代でも現金のみのお店もある
五ケ丘のあのケーキ屋さんも現金のみだった記憶
「私には価値がない」→他人と比べてしまうから
この間話した藤井風の「死ぬのがいいわ」という曲の歌詞に「鏡よ鏡よこの世で一番変わることのない愛をくれるのはだれ?」とある
これは「自分自身」の事なのだとか
私も自分自身を愛して生きて行こうと思う