世界の中心をずらすこと

おうちの窓を開けて、網戸にしたとする。

その網戸に、小さな虫が止まるとする。

そのことに気が付かず、私は網戸を開けて窓を閉める。

そのとき、虫は網戸と窓のあいだにはさまれて、出口を探す。

ふぅ出られた、と思ったら、小さな虫はいつの間にか「外の世界」から「内の世界」に入ってしまっている。

この現象が、非常に好きだ。毎回なんともおもしろい気持ちになる。

なにが好きなのかというと、虫の気持ちを想像した時に感じる”びっくり仰天具合”である。

虫は、”外の世界側の網戸”にとまったはずだった。それなのに、気がついたら”内の世界”に入り込んでしまっていた。そして、聞こえてくるのは「あ!虫がお家の中に入ってきた!」という人間の声。

(いやいや、ぼくが入っていったんじゃなくて、きみが入れたのでしょうよ)と、私が虫だったら絶対つっこみたい気持ちになる。

虫が入ってきたんじゃない、私が入れた。それは、同じこと、なのだけれど、違うこと。

世界の中心をほんのちょっと、ずらすことかもしれない。

こどもの頃、私たちは自分を世界の中心に置き、関連する対象を外側に置いていた。

「◯◯が、〇〇してきた」のように、相手が自分にどう作用してきたのか、と考える。自分は不動のものとして中心に置き、相手が自分に対して作用してきたから、このような事態になったと主張する。それは、天動説のようだといえるかもしれない。

それに対して、自分も動くものとして世界の中心に置かない視点は地動説的といえるかもしれない。相手が一方的にぶつかってきたわけじゃない。どちらも動いていて、たまたま衝突してしまったものはどちらかが100%悪いというものではなく、割合の差はあれどどちらにも要因はあったよね、という考え方。

天動説的な考え方になると、受動的な言葉が出てくる。「〜された」「〜言われた」「〜させられた」などは、相手が自分に対して作用してきた時に発せられる。

地動説的な考え方になると、能動的な言葉が出てくる。「〜した」「〜言った」「〜聞いた」”自分側が行ったこと、動いたこと”を表す言葉であり、相手の言動もまた、自分の言動と同系列に置く態度。相手が一方的に悪い、とは看做さない態度。それが大人になる、ということかもしれない。

その客観的な態度を内包しつつ、自分の感性も蔑ろにしない。そのバランスが案外難しいのかもしれない。

網戸のはざまにいる虫を見ていると、とってもおもしろい。世界はおもしろいもので溢れている。おもしろいものを、おもしろいと感じられるように、ほんのちょっと余白を残せるようになるといい。

身体のSOSは自分にしかわからない。あなたが、あなたのために、身体の声を聞いてあげられる日を心より願っている。

2023年08月14日 | Posted in ブログ, 私の生き方 | | 2 Comments » 

関連記事

コメント2件

  • 松島 馨 より:

    網戸と虫の関係、実に面白い
    よくある引違い窓の外に網戸があるパターンでは起き難い現象ね
    我が家は外に開く片開き窓の箇所もあるので(窓を開けた後にロール式の網戸を下ろすタイプ)虫を招待しやすいʬ
    「虫が入ってきた」、「きみが入れたのでしょうよ」それぞれの視点で考えてみるのも面白い

    あ、視点が違えば物事の見え方がまるで違って見えるアノ映画、まだ観ていなかったら公開終了前にぜひ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      引違い窓の外側でも起きるけど、片開き窓のほうがより確率高いですね!
      そうだ、まだ観れていないんでした!終わっちゃうかな〜。行けるかな〜。
      最近、面白そうな映画多くてこまっちゃいますね、いい意味で◎

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です