初心忘るべからず
「このコーヒー、とろっとしてるね」
そう呟いた6年生の女の子の言葉に、ハッとして顔をあげる。
そのとき淹れていたコーヒーは、ブルンディ。それは確かに、ここ最近の入荷の中で特に粘度があるコーヒーだ。心の中で(とろりとして、なんて美しいのだろう)と、うっとりしていたところで、目の前の女の子がそう呟いたので、思わずハッとしたのだった。
コーヒーをドリップする。
その時に、色のことや濃さのことは、ときどき話題にのぼる。「いつもより、赤っぽいね」「透き通っていて綺麗」などと言い合っては、豊かな気持ちになる。声に出さなくても、心の中の言葉が聞こえてきた時には、嬉しい気持ちで満たされる。
6年生の女の子が、質感のことを見て、感じてくれたことが、とっても嬉しかった。
コーヒーの質感を目で見て感じる、というのは、滴るときの雫の形状や波紋の広がり方、一瞬見ただけでは分からなくて、じっくりと観察しなければ感じられない。もちろん、口に含めば、より体感することができるのだけれど。
きっと、いつものように、ドリップされる液体をじっと見つめて感じてくれたのだろう。
何かをじっくりと観察する。感じる。そうしていると、パッと見ただけではわからないものが浮かび上がってくることがある。じっと目を凝らして、その対象に集中する。そこだけに意識を持っていく。そのとき、時間という概念の外側に放り出されたような、現実の外側にはみ出したような感覚になる。
そのときの感覚は、瞑想やゾーンと呼ばれるようなものに近いような気がしていて、精神の無重力状態ともいえる気がする。日本的にいうなれば、茶道に近いのかもしれない。
自発的な感じ方、物の見方ができる、ということは、心が豊かになることでもある。
心が豊かになるようなことは、コーヒーだけじゃなくて、日常の中にもたくさん転がっている。日々過ごしている日常にアートはたくさん散らばっていて、それに気付くか気付かないかは自分次第なのかもしれない。
「最近の日本人は、醜さに鈍感になっている気がする」そう書いてあった本の言葉には、悔しいけれど頷かざるおえない。
醜さに鈍感。それは、目に見えるものだけじゃなくて、品位においてもいえること。
「朝、暗くて寒い時間に、通る人に暖かいコーヒーを淹れてあげたい」
そういったゆかちゃんの言葉は、何よりも美しくて、真っ直ぐで、何か大切なものを思い出させてもらったような気がした。技術や、経験や、知識はもちろん大切ではあるけれど。
その気持ちこそが、街のコーヒー屋としての素質そのものではないか、とも。
ときどき、忘れそうになってしまうくらいシンプルなものの中にこそ、大切なものがあるかもしれない。
心がぐらっと揺さぶられた、いい週末でした。
わかり易いのは色や香りなのに、コーヒーの粘度がまで 分かる女の子…凄いな
将来コーヒー屋さんになりそう?
ブルンディ、舌にまとわり付く感じの粘度感なのに、いつまでもしつこく残り続ける訳ではない不思議
「いつものコーヒー」、と注文してこのコーヒーを逃している方にも一度飲んでみて欲しいコーヒーですね
と、「いつものコーヒー」がない優柔不断な人間が言ってみるʬʬ
「朝、暗くて寒い時間に、通る人に温かいコーヒーを淹れてあげたい」…ほんと早朝からお店を開けて頑張ってて「ありがとう」って気持ちになる
体もココロも暖まるコーヒーをいつもありがとうございます