The Art of Loving
「円がある」ということは、円の内側と外側があるということ。
円の内側と外側があるということは、そこには何かしらの差異があるということ。
1年A組があるということは、1年A組の人とそうじゃない人がいるということ。
「仲間がいる」ということは、仲間と仲間じゃない人がいるということ。
「友達がいる」ということは、友達と友達じゃない人がいるということ。
「常連さんがいる」ということは、常連と常連じゃない人がいるということ。
この「有る」から発生する「円」を、なくしたい。
内側と外側の差異が発生してしまうのであれば、円自体を擦って消してしまいたい。括りをもうけず、すべてを個別のものとして認識していたい。
そうしたら、敵も味方もなくなって、対立関係は成り立たず、すべてがバラバラなものとして争いは起きないのではないか。それが私の体の中に組み込まれていた”平和のかたち”だった。
”あ、わたし、今、外側にいるなあ”と思うことがある。よくある。
なんか、上手く馴染めない時。初めて行った場所で、自分以外のひと全員が知り合いっぽい時。みんながとっても楽しそうな時。アウェイなとき、と言い換えてもいいかもしれない。
(おお、みんな楽しそうで良き良き)と思いながら、その中に入ろうとはしない。
決して、卑屈である、とかひねくれている、というわけではない。(いや、ひねくれてはいるかもしれないけど)
ただ、円の内側に入りたい、とは思えない。なぜなら”入りたい”と願うことは、円の存在を認めてしまうことになるから。本当は見えているはずの「円」を、見えていないかのように扱うことで、意識の上で「無い」ことにしている、だけなのかもしれない。
円などない、差異などない、すべてバラバラ。そう思おうとしているのかもしれない。
そもそも、円など「ない」人からしたら、内側も外側もないのだし、見えないかのように扱わなくたって、そもそもその概念がない。円はない。それは、羨ましい形の平和。
”自由”を意識した途端”不自由”になるように、円を意識した途端”内側”と”外側”が発生する。
そもそも、そんなものはないのかもしれないのに。
同じシチュエーションに立ったとしても、そこに排除を感じる人と、そうでない人がきっといる。
「この場所に居たい」と思う場所と、「この場所に居られない」と思う場所は、人によって感じ方も変わる。私にとって「居心地がいい」と思う場所は、有よりは無で、固よりは流で、動よりは静で、多よりは少で、明よりは暗、だ。
真逆な人だっているだろう。
全員排除しない場所をつくるとしたら、それは極力「無」に近い状態になる。はたして、そんなことは可能なのだろうか。
誰も排除しない居場所をつくりたい、と心から願ってコーヒー屋をやったとしても、”コーヒー屋”である以上は”コーヒーが飲めない人”を排除している可能性がある。
その可能性を心に留めながら、自分が追いやっているかもしれない誰かを想いながら、それでも自分に出来る目の前のことを一生懸命やるしかない。きっと、そういうものなのだ。
友達だから愛する、とか。家族だから愛する、とか。常連さんだから良くする、とか。そういうことじゃない。円の内側だから、ということではない。縁がない人も、顔を見たことも、会ったこともない人をも愛するという態度。
それが”愛するということ”The Art of Lovingな生き方かもしれない。
幸いか不幸か、体の中にそもそも組み込まれていたであろうその種を、取り替えることは出来ない。自分で水をあげて、愛でて、成長させていくしかない。きっと、そういうものなのだろう。
なるほど、見えない円の内と外との差異は確実に存在している
○○サークルみたいなものは中に居る人達同士は仲良しだけど、外の人達には無関心だったりね
たびたび藤井風の話を持ち出して申し訳ないのだけれど、最新曲【Hana】(花)に「みんな儚い みんな尊い」、「誰もが一人 全ては一つ」という歌詞がある
互いを尊重し合える世の中ならば円の輪郭もぼやけてくるのだろうか…