わからないままでいること
ものの見方には、個性がある。
誰もがおそらく偏っていて、「真ん中」を制定することはとても難しい。
「真ん中」つまり「ふつう」を知るには、あらゆる見方をしなければそもそも「ふつう」はわからない。あらゆるものの見方をしたとしても「本当にそれがふつうなのか」は定かではない。
自分のものの見方の偏りを知ろうとすること、意識しておくこと、は「他者をわかろうとすること」において、最重要項目かもしれない。
あれ?この人と話が通じないぞ?と思った時に、まず疑うべきなのは自分の方の価値観で、あれ?私の考え方が偏っている?と気付くチャンスは、そういうところに転がっている。
自分を「ふつう」において考えた場合、話が通うじない相手=相手がおかしいのではないか、と思いがちである。そもそも人間は自己中心的な生き物で、全員が全員「自分の世界の中でしか生きられない」
他人の視点で見ようとしたところで、それは「自分が想像した他人の視点」にすぎないのであって、100%ピュアな他人の視点じゃない。
誰もが「自分の世界」しか見えないのであって、それは生まれてから死ぬまで一生変わらない。
そう思うと、生きるというのはとても孤独な営みだなあと思う。
生きるという孤独の中で、「きっと100%はわかり合えないけれど、わかろうとしてくれている人」がいることは、救いになる。
「あなたのことが知りたい」というのは、相手に対する最大のリスペクトの形かもしれない。
コミュニケーションの中で「相手のことがわからない」ということは、よく起きる。それ自体は問題じゃない。問題なのは「わからないこと」じゃなくて、「わかろうと思えなくなってしまうこと」かもしれない。
その渦中にいるときには、どれだけ言葉をかわしても、理解できることはない。おそらくいい方向にはいかない。むしろ、すれ違う。交わせば交わすほど、わからなくなる。
俯瞰でみたり、部分でみたり、短期的にみたり、長期的にみたり、断片的にみたり、連続的にみたり、感覚的にみたり、思考的にみたり、あらゆる角度で見てみよう、と思い続けることは体力がいる。
もう、わからない、、と投げ出したくなる。消耗して「わかろうとも思えなく」なってくる。
”わかろうとすること”は大事だけれど、それによって相手を”嫌いになってしまいそう”なのであれば、もう、そこまできてしまったら「わからないままで一旦そうっとしておく」で、いいのかもしれない。
(今は、あなたの言っていることは”わからない”けど、いつかわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれないし、それすら”わからない”けど、ちょっと一旦様子を見てみましょうかね)という具合に。
どれだけ言葉を尽くして伝えても、きっと誰にも理解されない。そう思うとき、人は孤独になる。周りにどれだけ人がいても、賑やかな中にいても、家族やパートナーといても、その状態は孤独といえる。
たった一人でも「わかろうとしてくれる人」がいれば、それはほんの1mmであっても、その人の中の”居場所”として作用するはず。
その役割は、家族じゃなくても、友達じゃなくても、職場の人じゃなくても、パートナーじゃなくても、きっと担える。
今は、まだ、ちょっとわからないけれど、いつかあなたの言っていることがわかるといいな。
時を経て、価値観が増えたり変わったりしたら、わかりたいと思えるかもしれない。
「過去に嫌いになってきた人は記憶から抹消する」という人に時々会うけれど、それはなんだか惜しいことだと思う。そこには学びがないような気がしてしまう。”あのとき、とっても嫌だったなあ”と思っても、いつか”そういうことだったのか”とわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれないし、それすらわからないけれど。
なかったことにはしなくていい。
”そのままそこに置いておく”という忍耐力をつける必要があるような気がする。
この忍耐力を鍛えたい。
わからないまま、置いておく体力。すぐにジャッジしない体力。”すぐにわかろうとしてしまう習性”が、そういう体力をつける機会を奪っているのかもしれない。
そのことに、自覚的になっておいてもいいのかもしれない。
皆んな自分の考えが「普通」だと思って生きている
自分の思ったように事が運ばないとイライラしたりもする
お菓子などを開封した時に出る「切り口から切り取られた上部」をテーブルに放置、ラップを棚から取り出してテーブルのおかずのお皿をラップしたら「ラップ本体」をテーブルに放置
嫁さんが使った物を片付けない事にイライラしていたら平穏な日は訪れないのですよʬʬʬ
ひと口だけ残して何時間も放置されたコーヒーカップも気が付いたら片付ければ良いのですʬʬʬ
自分の存在を認めてくれる人がいる事は幸せな事
理解してくれる人、場所がある私は幸せだ