刹那的であるということ
この世界のすべての瞬間が刹那であると感じた時に、目にうつるすべてのものが愛おしくなる。不思議。とっても、不思議。
すやすやと眠る子どもの寝息。
ぽつりぽつりと滴る雨水。
立ちのぼる湯気の蒸気。
朽ちていく花弁。
おはようと挨拶するおばあちゃん。
じわりと暖かいストーブの熱。
聞こえてくる赤ちゃんの泣き声。
頭の中を渦巻く思考。
空いたお腹がぐう、と鳴る音。
きのう出来たすり傷。
なんてことないもの、といえばなんてことないものばかりなのだけれど。まったくおんなじものは、二度とない。
似ているけど、昨日のそれと、今日のそれは、ちょっと違う。意識が変われば見え方は180度変わる。
そう思うと、寂しさや、苦しさもまた、愛おしい気がしてくる。
楽しさや、豊かさも、儚く美しい。
今日いる人が、明日もいるとは限らない。
目の前にあるものが、ずっとあるとは限らない。
手に入れたものを、所有し続けられるとは限らない。
ずっとそこに在り続けるものなど何もない。
この時間がずっと続くことなどあり得ない。
”在る”ということは、常に”無い”の可能性を秘めている。
”無い”を内包していることを引き受ける。刹那を受け入れる。
それは、はじめからすべてを諦めることとは違う。
何にも期待しないこととは違う。
現代のテクノロジーは、こういった刹那をなるべく遅らせようとしたり”永遠”を生み出そうとしたりしてくる。曖昧なものや不明確なものをくっきりさせ、数値化できないものを測ろうとする。
でも、本当に大事なのって、永遠に変化しないことなんじゃなくて、変化することを受け入れ続けること。変化する過程も愛でること。
そこに愛おしさや有難みが湧き出てくるような気がする。
今日、今、この瞬間の気持ちを大切に出来たのなら。次のことじゃなく、明日のことじゃなく、1年後のことじゃない、瞬間瞬間を感じられたら。
画面の向こうに無限に広がる世界じゃなく、いま、目の前にあるものに意識を向けられたら。きっと世界はほんの少し変わる、、気がする。
それは、きっと、平和にも通じている。
明日は今日の続き、ではない
今という一瞬を生きている
少し前に観た映画に「今度は今度、今は今」という台詞があった
今でも頭の片隅に残っている
今の一瞬を「楽しみ」、「愛し」、「生きる」事が出来たら、幸せな人生を過ごせるに違いない