コーヒーと日常
先週、久しぶりに自分の体調不良でまるっと1日、お店をお休みしてしまいました。(もし立ち寄ってくれた方がいたら、すみませんでした。)
わりと高温の発熱で、体もなんだか痛くて、ぎょっとして病院に行ったのですが、ただの風邪ということで。それを聞いた途端に安堵して、ごきげんでアイスクリーム食べながら帰るという。
(インフルエンザカモシレナイ、、今週ノ予定オワッタ、、)と思っていたときには、とってもどんよりしていたのに、大丈夫そうとわかった途端にけっこう元気になるなんて。気持ちと身体が直結しているようで、単純な人間なのだなあと改めて感じました。
発熱外来、車の中で順番を待つ間。ズキズキする頭を抱え、暖かい日差しを浴びながら、うとうとしながら、ふと思いました。(こんなに最高のお天気の日に、コーヒーを淹れていないなんて、、今日もコーヒーが淹れたかった。)
”今日も誰かにコーヒーを淹れたかった”
その感情がぽろりと出てきたことに、我ながら笑ってしまいました。毎日コーヒーを淹れていても、明日も淹れたいと思えること。お店に立てなかった日に、悔しがれること。この感情を感じられただけでも、この日に意味はあったような気がします。
コーヒーを淹れることに執着がありすぎる、といえばそうかもしれない。それも”誰かに”というところが私にとっては重要で、自分が社会に対して唯一”なにかできること”がコーヒーを淹れることだと思っているのかもしれない。
誰かの日常に関与するということ。誰かの日常の一部になるということ。
自分の日常に誰かが関与するということ。自分の一部と誰かの一部をわたしあうということ。
他者と時間を共有するということ。
自分にとっての不得手を、なんとか可能にしてくれるのがコーヒーなのかもしれない。
今週はしとしと雨予報です。雨の日は、ポツポツというBGMも味わえるROJIがとってもおすすめです。というわけで今週も頑張りましょー◎
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コメント4件
コーヒー淹れてほしい!!
体調不良、長引かなくて何よりです
病院の駐車場の車の中で「コロナ・インフルエンザともに陰性です」と伝えられた時の安堵感はハンパないねʬʬ
自分でコーヒーは淹れられるけど、誰かが淹れてくれたコーヒーの方が美味しいと感じるのはなぜだろう
雨の日のROJI COFFEE居心地良さそうです
誰にも会わなくても本さえあれば素敵な時間を過ごせそう