motto
もっと、欲しい。もっと、良いもの。
もっと、食べたい。もっと、美味しいもの。
もっと、遊びたい。もっと、楽しいこと。
もっと、愛されたい。もっと、満たされたい。
もっと、頑張りたい。もっと、成長したい。
もっと、もっと、もっと。
この”もっと”は人間が持って生まれた性質か。それとも、後天的に社会に植え付けられた性質か。
動物は、生きるのに必要な食べ物は摂取するけれど、それ以上は求めない(気がする)
植物も、必要最低限の養分を自分に取り込み、それ以上は求めない(気がする)
人間は、必要最低限のものを手に入れても、殆どの場合は満足できず、もっと、もっと、と欲している(気がする)
なにかの本に書いてあった。
「生きるとは、欲望すること」
たしかに、そう言われてみると、いつも何かを求めている人は、なんだかちょっと覇気があるような気がする。どちらかというとギラッとしていて、意欲という名の熱のようなものを帯びている気がする。(ちょっとうらやましい)
方向はなんであれ、人間はつねに”なにか”を欲望してしまうのかもしれない。
それは人間の本能ではなく、社会に植え付けられた価値観の部分が大きい気がする。”お金”という腐らない概念が、貯めることを可能にし、今現在必要としているもの以上のものを欲しがってしまう。
もっと、と欲することは、過去と未来を比較すること。
過去よりも多く、過去よりも良く、過去よりも素敵に、過去よりも成長する。
それは、この社会では一般的には”良いこと”ということになっており、それらの方向に流れることは自然なことであり、昨日よりも今日、今日よりも明日、というふうに階段的にすすんでいく、ということになっている。
でも、果たして本当に、過去と未来は比較しなくてはいけないのだろうか。
そもそも、過去と未来は比較可能なものなのだろうか。
もっと、もっと、と欲するかぎり、資本主義の思う壺ではないか。資本主義とは、満足させないよう人間を刺激し、触発しつづける成長システムだ。そこから問い直さないと、社会を平和にすることなんて不可能だ。成長をベースに構築されているシステムの中では、止まることは”後退”を意味するらしいが、それは過去と未来や、自分と他者との”比較”によってそうなっているだけで、絶対的なものではなく相対的なものでしかない。
ところで自分で書いておいてなんなのだけれど「もっと、愛されたい」って、なんだろう。もっと、満たされたい、もっと安心したい、、?もっと、解り合いたい、、?
受動を欲する、というのは、かなり難しいことかもしれない。受動的な”もっと”は、叶わなかったときの”満たされなさ”を増長させるかもしれない。
”もっと頑張りたい”の根底にはもしかしたら”もっと評価されたい”が眠っているかもしれないし、”もっと欲しい”の根底にも”もっと認められたい”が潜んでいるかもしれない。
根本は受動の欲求だ。受動の欲求は、自分一人では叶えられないから、強く大きくなるほどしんどさや苦しさを伴う気がする。
”もっと”の向こう側にある欲求を見つめていくと、自分は自分をどう定義しているのか、というところが見えてきそうな気がする。
今の世の中に圧倒的たりていないのは【足るを知る】という価値観かもしれない。いや、待って、足りていないものが【足るを知る】って、その時点でもう【足るを知っていない】ということになる。
ある時に気づいたことがある。
私が今のこの社会を”もっと平和にしたい”と思っているのは、”今現在平和ではない”と感じているからで、”もう十分平和”と思っている人にとっては”もっと平和にしたい”とは思わないのかもしれない。その人の内側にある社会は、もうすでに平和なのかもしれない。
社会は、その人の内側に存在するのか、外側に存在するのか、という違いかもしれない。自分個人を取り巻いているものを”社会”と呼んでいるのか、地域、国、地球を取り巻いているものを”社会”と呼んでいるのか、という違いかもしれない。
もっと平和になればいい。この視点にも”足るを知る”を適用させたとしたら、もう世界は平和なのか、、?(うーん、、こればっかりは、納得出来ない)
この世は欲望だらけ
自分は満たされているのに「もっと」となってしまうPERFECT DAYSの平山さんの様に「自分にとっての幸せ」を見つけて生きていきたい