何をコミュニケーションと呼んでいる?
海外のお客さんが、お店にくるとする。
私たちは、ほとんど英語を話せない。だから、相手の言いたいことを読み取ろうと必死になる。能動的に相手を受け取りにいく。
何を欲しいと思っているのだろう。何を注文したいのだろう。何を聞きたいのだろう。
身振り手振りを交えながら、拙い英単語を駆使しながら、相手の目を見て必死に理解しようとする。
そして、それは相手も同様。必死に伝えようとしてくれる。意思を届けようとしてくれる。わたしたちの聞きたいことを知ろうとしてくれる。
あのときの、真剣に相手に向き合うやりとりを私はコミュニケーションと呼んでいる。
それは、一方的に言いたいことをどわーっと流し出すそれとは、ずいぶん違う。
相手のことを理解しようと向き合う姿勢。それがコミュニケーション。
その前提に立ったとき、ときどき”言語が邪魔”になることがある。目を見ずとも、耳から自動的に入ってきた単語を、自分の方向からの解釈のみでわかったような気になる。本当に相手が言いたいことはなんだろう、ということに思いも馳せず、相手の使用している単語(言語)と自分の使用している単語(言語)が、同一の意味合いであると決めつける態度。
そのときの”共通言語”(と思っているけれど共通していない)は、共通言語がないときよりも「相手が理解してくれているはず」という甘えのもとに成り立っていて、それは逆に”意思疎通の出来なさ”を浮き彫りにする。
少し前に「人間らしさ」について話しているときのこと。私は”感情的なもの””五感的なもの”を「人間らしさ」と呼んで話しをしていた。一方、相手は”理性的なもの””思考を伴ったもの”を「人間らしさ」と呼んで話しをしていた。
どこかのタイミングで会話にすれ違いが起こり、「いったいなんのことを人間らしいと表現しているのか?」とすり合わせたところ、真逆の意味合いで同じ単語を使っている、ということに気がついた。
ああ、そうなるとさ、むしろ真逆の前提で話してるじゃん。逆さまになって、上下左右、全部違った意味で会話してるじゃん、ということになった。それは、とっても面白く、怖い体験だった。
同じ言語だから通じているはずだ、受け取ってくれているはずだ、認識してくれるはずだ、という”はずだ”は、には落とし穴がたくさんある。距離が近い相手ほど、同じ時間をともに過ごす相手ほど”共通”だと勘違いしてしまうことは起こり得る。
言語は、とっても便利で素晴らしい。だけど、だからこそ、大切なことほど慎重に、言語ではない部分から読み取ろうとすることを忘れずに、異世界に放りこまれたかのように相手に接する丁寧さを、時には意識しなおしていなければいけないのかもしれない。
コミュニケーションって、なんだろう。むずかしくて、とっても面白い。
樹木荘で、非言語を提案しているのは、そういうこと。言語を極力介さず、言語ではない部分で相手のことを理解しようと、目を見て向き合う姿勢。そういうものを、樹木荘では大事にしていきたい、と思っている。
関連記事
コメント7件
はじめてコメントさせていただきます。
子育てをしていてまだ小さい息子に日々言葉を強要し続けていることに気づかせていただき、いや、気づかないふりをしていることに目を向けさせられた思いで胸に突き刺さりました。
言葉の持つ排他的で断定的な不完全さに子供の豊かで幼い表現を押し込めて私が単に安心したい、楽をしたい…言葉で表現することの重要性を正論として解きながら、その実自分のストレスを軽減させるために言葉を利用していたのだなと深く反省…。
樹木荘、どんなところなんだろう。
「私は」と「私が」の違い、「そう思う。」と「そう思うよ。」の違いで気持ちを表現したり、受け手として印象が変わったりするのも言葉や文字の力だと思います。
ただ、それに対する感じ方は人それぞれで、センサーの精度がミリ単位の人もいれば、キロ単位の人もいます。メートルだと思ったら、グラムだったみたいなこともあれば、メートルじゃなくてマイルや尺だったで、むしろ紛らわしかったり。
「この人と話が合うなぁ」とか「全然、かみ合わないなぁ」と感じるのは、内容以外に尺度の単位によるものも大きいのでは。
もちろん、そんな細かいことは関係なく、赤ちゃんが笑ったり、犬が尻尾をぶんぶん振るだけでこちらもうれしくなることもあり、これをコミュニケーション力とか表現力とかいうのであれば最強ですよね。
我が家の愛犬の気持ちを知りたくて能動的に相手を受け取りにいって、たまに「しゃべってくれればいいのに。。」と思うこともあるけど、言葉が話せないから能動的になれるし、目が合うだけでうれしくなるなんていうのは言葉を使わないからだと思います。まさに非言語コミュニケーション。
そう、海外の方とのやり取り、「なんとなく上手いこと出来ちゃってる」よね
先日、歌のイベントでアジア系の方に声を掛けられたけど、どうも英語が通じないみたいで久し振りに頭がフル回転!でも通じたかは分からないʬ
メグリア前の広場で歌っていた方を本物の「山下達郎」と勘違いしてなければそれで良い
樹木荘での非言語のコミュニケーション、とても面白そうです