画面の中のこと
ネットの中に、世界のすべてがあると思わないほうがいい。
それは、つい口から出てしまった、もしかしたら失礼に値するかもしれない言葉だった。
ネットの中にあるもの、とは、情報であり、言語であり、誰かが切り取った断片であり、膨大な果てしなく大きな世界の中の小さな欠片の集合体。
多方面的な見方の情報であっても、それは想定の範囲内の”多方面的”でしかなく、少なからず作成者の意図が入っている。
誰かの作ったもの、は、誰かの主観や、一般的な理論や、”誰かにとっての何か”だ。
それが役に立たないとか、役に立つとか、そういうことではなく。 それは、”自分にとっての何か”ではない。
ネットの中に、いろんな場所のクチコミが載っているとする。それは、それを体感した人から見えた景色であって、自分が見た景色ではない。だとしたら、そのクチコミは”自分の世界”の中では、実存していると言えるのか。むしろ、虚像であるとも言えるのではないか。
インターネットの情報は、とっても参考になる。だけれど、そこに世界のすべてが載っているわけではないし、”誰かの感想”は誰かの感想として、それはそれとして受け取ればいい。
自分には”不可解なこと”であったとしても、それは別の見方をしたらとっても理にかなっていることかもしれず、自分の見方など70億分の1でしかない。
”不可解なこと”を自分の中の常識だけで理解しようとしても、きっと理解はできない。
自分にとっては”わからない”けれど、あなたにとってはそうなのですね。そう言われることは、決め打ちでわかったふりをされるより、よっぽどいい。
”自分にとってはわからないけれど、あなたにとってはそうなのですね。”というスタンスは、傾聴のスタンスとちょっと似ている。それは、同じ方向からただ一緒に眺めることであり、そこに規範のルールや道徳を当てはめないことであり、相手を信頼したうえで、相手の言葉も自分の言葉も信用しないことかもしれない。
言語化された言葉を信用するのではなく、言語化されなかったものを共有することかもしれない。
他人のことが100%わかることなどない。100%わかった、と思った時点で100%わかってなどいない。
だけど、だからこそ大切にできるのかもしれない。
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コメント6件
フェイクニュースなんてのもあるし、ネットが全て正しいとは限らない
ネット上での飲食店や映画などの評価や口コミを重要視する人は「自分は高いお金を無駄に払って損をしたくない」、って気持ちのあらわれなのだろう
ちょっと気になったお店や映画はネット上での口コミや評価など気にせず行ってみたい派です
結果「あらら」って事があっても「他人の感想」ではなく、「自分の感想」が得られるのだから
> 他人のことが100%わかることなどない。
> 100%わかった、と思った時点で100%わかってなどいない。
> だけど、だからこそ大切にできるのかもしれない。
「あなたのことを理解できている」という過信から「裏切られた」という気分になることもあります。
これに対して、
「全部は理解できていないかもしれないけど、分らない部分も含めて受け入れる」
という心構えもあって、前者が「期待する」、後者が「信用する」と勝手に定義しています。
私も同じ思いです。
だからこそ、ネットの世界に深くつながる人ほど孤独は深まり、人とのつながりに飢えているように感じます。