今日も砂漠の真ん中で

これは絶対に白だよね、これは絶対に黒だよね、と言い切れることなど、この世界にひとつでもあるのだろうか。

白とも黒とも言えないことがほとんどの世の中だ。

黒とはいえないけれど白ではないよね、いやでも右から見たら白かもしれない、左から見たら白ではないかもしれない、、ということを考える時間がけっこう大切な気がする。

“AではないからB”ということではなく、”AではないけどBともいえない”ということだったり、”Aともいえるけれど、同時にBともいえる”であったり、

そういう曖昧な中にいる、という状態は体力を使う。すっぱりと判断して脳の外側に追いやることよりも、疲れる。

だけれど、それに耐えられなければ、ルールのない世界をつくることはできない。逆説的にいえば、ルールをなるべく減らしたいのであれば、みんなが、みんなの方向からの状況を想像しながら、その場その場でどうしようか、と考えるしかない。

それは、とても時間がかかることで、大変なこと。ぶつかり合うことで、傷つけあうこと。そうなると、ついついルールをつくりたくなってしまう。

今度こういうことが起きたときには「こうならない為に」こうしましょう、と考えることは当然のことではあるけど。

例えば、恋人同士が喧嘩したとする。

その原因を突き止め、また、同じことにならないよう約束をつくったとする。

そして、約束したのにもかかわらず、またそのことが起こったとする。

そのとき、悪いのは「ルールを守らなかった側」であり、そのとき「ルールを守らなかった側」は糾弾されても仕方のないことだ、ということになる。

でも、そもそも、そもそも、そうなのかな?

大切なのは、揉めないようにルールを決め、守らせることなのか?

そのルール自体に無視されているものはないのか?そもそも、なぜそのルールが必要になったのか?ルールを決める際に、双方の力関係に歪みはなかったのか?

どちらもが、そのルールの規定を心から望んでいるのか?

そのルールを正しいと定めている根拠はなにか?ここに価値観のズレはないのか?根本的な行き違いはないのか?

周到に擦り合わせもせず、”双方にとっての普通”を持ち出していたとしたら、ルールの認識がズレることは当然だ。なぜなら、単語ひとつとっても、あなたにとっての”白色”と私にとっての”白色”が同じ色なのだという根拠など何ひとつないのだから。

どこを見渡しても、なんにもない砂漠に投げ出されること。生まれるって、そういうことなのかもしれないと思う。

自分と同じ砂漠を歩いている人はいない。あの人にはあの人の砂漠があり、この人にはこの人の砂漠がある。

それぞれの人の、その砂漠のネガフィルムを重ね合わせる。

重ね合わせたから、近くを歩いている人とぶつかったり触れ合ったりできるような感じがするけれど、本当はそれは幻想で、すっと手は通り抜けてしまうような、決して触れることは出来ないような、生きるってそういうことだな、と思う。

ただ、そんなときに、物理的には(精神的には)接触することが出来なかったとしても、陽のひかりみたいなものはきっと透過して、向こう側のフィルムにも届く。

物体のようにがっしりと掴めないものほど、すり抜けて届くことができるのではないか。

それはもしかしたら、愛とか希望とか、壮大で曖昧で、見ようとしなければみえないものかもしれなくて。

ほとんどのルールが透過できない物体のようなものだとしたら、そうではない、もうすこし淡くてぼやけていて実態のないような、それでも確かに向こう側にもすり抜けていけるような、そういう”ルールみたいなもの”が必要なのではないか。

と、いうことを思った週末でした。

今週も良い日々になりますよう。5月もあと少し。がんばりましょ^^!

2024年05月23日 | Posted in ブログ, 最近の出来事, 私の生き方 | | 2 Comments » 

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    「強いコーヒーも良いけど、優しいミルクも素敵なの」
    白黒つけないカフェオーレは平和な飲み物なのです

    互いが相手を思いやる気持ちがあれば「ルール」ではなく、「ルールみたいなもの」で良いのかもしれませんね

    • NOZOMI より:

      松島さん

      自分が理想主義すぎるのかもしれない、、と思いつつ。
      できればギチギチした窮屈な世界ではなく、のびのびとした 穏やかな世界で生きたいものです。

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