8月の予定
8月の予定です。
駅前は、火水木金7時ー16時、土曜日とお盆(13日、14日、15日、16日)は10時ー16時です。
露地は、通常通り水木金土日10時ー17時です。
ときどき、耳を澄ますという遊びをする。
じっとして、目を閉じて、能動的に音を受けとりにいく、という遊び。
そのとき、世界はこんなにもいろんな音で溢れているのだなあ、と思う。
写真をパチパチと撮る。とくに、こだわりもなく、ただ、シャッターを押す。
なにを撮りたいのだろう。その瞬間の、音を撮りたいのかもしれない、と思う。
写真に音は写らないのに。手段を間違えているのではないか、と思う。
コーヒーを淹れることで、私が伝えたいことは、コーヒーの周辺にあって、コーヒー自体だけじゃなくて、その一帯をまるっと囲んだそのあたりにある。
初めてきたとき、ぶっきらぼうだったその人は、心ここにあらず、という雰囲気がした。忙しそうだった。なんとなく、冷たいものでも買おうと、どんなコーヒーでもいいからなんでもいいから早く、というメッセージを感じた。
それからも、なんども来てくれた。いつも忙しそうだった。
ある日、心ここにあらず、ではない感じがした。心もここに居てくれる感じがした。共に存在している気がした。それが、とても嬉しかった。
写真から音が聞こえたのかもしれない、と思った。コーヒーから、コーヒーではないものを拾ってくれたのかもしれない、と思った。
わたしたちは、思考に囚われているとき、ついつい、そこに”居ない”。身体は居るのだけれど、中身はどこかを浮遊している。
そこに居ないと、拾えないものが本当はたくさんあるのだけれど、分かりやすく差し出されたもの以外には気付けなくなってしまう。
成長資本主義の中では【与える】が過剰で激化する。そうなったとき、【受け取る】が脆弱になってしまうのではないか、という危機感がある。
差し出されたものだけが、受け取れるものだと思いこんでしまう。”拾う”ことを忘れてしまう。それに慣れてしまう、慣らされてしまう。
でも、本当はそうじゃない。
世界はこんなにも、いろんなことで溢れている。それを知るには、じっとして、呼吸を整えて、能動的に受け取りにいくしかない。落ちているものを拾って愛でるしかない。
写真から音が聞こえるかもしれないし、コーヒーに味覚じゃないものが混ざっているかもしれない。売買に、売買の外側でしかあり得ないものが散りばめられているかもしれない。
広くて淡くてさらさらとした、透明で輪郭のない愛のようなもの。実体のあるような、ないような、ゆるやかで穏やかなもの。特定の誰かへ向けられたものではなく、こんこんと湧き出て染み渡るようなもの。
すべてのひとに、行き渡ればいいと願ってるもの。
もしかしたら、手段を間違えているのかもしれない。一生かかっても不可能ではないか、と思えるほど果てしない。
果てしなさすぎて、途方もなさすぎて、そんな日々は最高におもしろい。
視覚を遮り音を受け取る→その音の正体を想像する
なんか楽しそうだ
写真には音や時間、匂いや味や感情も写らない
だけどそれらを感じられる写真は有る
写真には「その人の”心”が写る」と聞いた事がある
なるほど、そういう事か!…いや、ますます写真がわからなくなるʬ
音楽を聴くと何十年前の情景や感情が蘇ったりするアレか?いや違うかも?ʬʬʬ
どんな心の状態の時にでも、あそこに行けば優しさに溢れた癒やしのコーヒーを飲む事が出来る
そんな場所には自然と人々が集まって来るのだろう