心の添加物をやめる
公転の回転数をカウントすることになんの意味があるのだろう?と、いつも思っている。
公転の回転数は、1年をカウントしているのだから、今であれば「2024年」、来年であれば、「2025年」ということになるのだけれど。
だから、なんなのだ、と思えて仕方がない。
数字が増えていく。だから、なんなのか。歳を重ねていく。だから、なんなのか。
いや、そりゃあ科学が発展していくということにおいて、経済が成長していくことにおいて、きっとこれらの数字はとってもとってもとっても大切なものなのだろうことはわかる。
時間も、日にちも、人と人が社会を営むときに、必要なのはわかる。
指標がなければ、色々なことがスムーズにいかないのはわかる。
だけれど、それによって失われているものがとてもたくさんあるのだとしたら、その効力をほんの少し(心の内側で)弱めてもいいのではないか。
いつもお店にくるおばあちゃんがいる。おばあちゃん、と呼ばれると怒る。名前で呼んで、とはっきりいう。普通名詞、ではだめなのだ。私にはちゃんと名前がある、ということなのだろう。
おばあちゃんは、自分の誕生日を知らない。年齢も知らない。年齢?なにそれ?知らないよ、だからなんだ、という感じだ。
気が向いたら、ふらりとお散歩に来て、気が済んだら帰っていく。”時間だから帰る”のではなく、”気が済んだ”から帰るのだ。
それでも、大体同じような時間に来て、大体同じような時間に帰っていく。
ルーティーンとはそういうことなのかもしれない。
おばあちゃんは、あらゆる抽象概念を知らない。具体的な物象で生きている。目の前にあるもの、過去に起こったこと、自分のこと、自分が実際に体験したこと、だけが現実として存在しているのであって、それ以外のことは”無い”のかもしれない。
それはつまり、”今”だけをみているということ。
その状態のとき、人には不安が”無い”。
”不安・心配”は無いものを”有るもの”として自分の見ている風景に添加することだから、”無いもの”が見えていない人には、不安はない。
通常は、社会の通念に侵されてしまって、そこまで”無い”を維持することができない。
だから、私はこのおばあちゃんを密かにすごいと思っているし、興味深くて仕方がない。
地球は、どこにも進まずに、その場で回りながら、太陽の周りを周っている。それは、進んでいるのではなく、ただ、まわっている。それに人間が勝手に数字をくっつけて”進んでいる”ということにしたに過ぎない。
時間は別に進んでいない。進んだ、ということにしているだけで。その方が都合がいい人がたくさんいるというだけで。
邪魔してくるのは、いつも”常識”であり、”比較”だ。
一旦あらゆる概念を疑ってみると、とってもいい気がする。それは、現実逃避と言われればたしかにそうなのだけれど。視野の転換と捉えれば、心の内側は穏やかになる。
視野の転換では、世界はかわらないかもしれない。
でも、一人一人の心の内側はかわる。一人一人に心の内側が変われば、世界は変わるかもしれない。
「地球はまわる 君をのせて
いつかきっと出会う ぼくらをのせて」
誰かと出会う為だけに地球はまわっているのかもしれない
不安、心配は独りでいるとどんどん増大してしまう
一時的にでもそんなものは無かった事にしてくれる空間、そこで出会う人々に助けられて生きている