◯か、ーか

◯の時間で生きているのか、ーの時間で生きているのか、という違いで、生き方はけっこうかわってくるように思う。

◯の時間とは、円環的な時間のこと。

円環的な時間は、ぐるぐる巡る季節のようなイメージで「時間が流れている」というよりは、「まわっている」という感じ。生まれること、死ぬこと、子孫をつなぐこと、引き継ぐこと、世代交代、のような”時間全体”が始まりも終わりもなく、円上をゆっくり動いているような感じの感覚。

ーの時間は、直線的な時間のこと。

後ろから前へ進み続けていて、それは止まることなく流れ続けている。”生まれる→死ぬ”だったり、”今年→来年”だったり、遡ることなく流れ続ける。どのくらいのはやさかは、人によって大きく違う。

円環的な時間感覚のひとと、直線的な時間間隔のひとでは、得意なことや向いていること、あらゆる意思決定が異なるような気がする。そして、現代は、直線的な時間に支配されているように思う。

”成長”や”目標”のようなものは、直線的時間感覚であれば必要になってくるのであって、円環的時間感覚だとあまり意味をなさない。資本主義、ビジネス、戦略、勝敗、正誤、のようなものは直線的時間が大きく関わっている。

因果関係は、円環的時間で捉えると、どこまでも遡ることができる。そして、そう捉えた場合、正誤も勝敗もつかなくなる。

例えば、道で誰かにぽんっと押されたとする。直線的時間で捉えれば「押した→押された」という部分を切り取ることができ、押した人が悪い、ということになる。

では、円環的時間で捉えればどうか。円環的感覚では「押した→押された」という部分だけを切り取らない。「押した→押された」の「押した」の前にも、別の人の「押した」がなされてはいなかったか、以前その人に押されたから後日押し返した、ということはないか、もしくは「押すべき理由」があったり、「押してしまった理由」(前の人が事故に合わないように押した、など)の因果関係を遡ろうとする。因果関係が循環的であると捉えた場合、正誤は短絡的には決められなくなる。

その理論で行くと、勝ったほうが”勝っていない”ということも、負けていると思いきや勝っているということも起こり得るため、あらゆることの勝敗はつけられない。(スポーツなど、切り取った時間であれば勝敗はつけられるが)

与えるということが与えられる、ということでもあるし、ケアするということがケアされる、ということでもあるし、贈るということが受け取るということでもあり、すべての物事が切り取られずに地続きになっている。(大きな意味での、卵が先か鶏が先か理論のようでもある)

円環的時間で生きていると、穏やかで、平穏で、退屈で、心地よくて、永久的で(自分が死んでも世界は続いていくという意味で)持続的である。

そこには脱落者はいない。正誤も善悪もない。お互いがお互いに、ただ作用して成り立っている人間が介入していない森の中の自然環境のようでもある。

円環的時間感覚の中では、誰にも急かされない。今日が来て、明日が来る。日が昇って、日が落ちる。今日と明日は明確には分かれていない。地続きである。

つまり、今年と来年も、今この瞬間も10年後も”おなじ”だ。

もっといえば、人生は1秒、という単位を繰り返している、のみ。それだけのこと。

ROJI COFFEE&BOOKSは、円環的時間感覚の表現である。

そして、その感性が、これからの未来には必要なのではないか、と思っている。

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    パーフェクトデイズの主人公”平山”のように毎日同じ様でも同じではない、平和で幸せな暮らしがしたいです

    • NOZOMI より:

      松島さん

      平山さん、とってもよかったですね。。
      平和で穏やかな暮らしは、世界からの要求を棄却することかもしれない、なあ、、と。

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