カフェという姿勢
(まだ、やっているかなあ。)
そう思いながら、初めてバイトしたパスタ屋さんのあたりをうろうろする。
あぁ、そうか。あのときのパスタ屋さんは、サイゼリアになっていた。
20年も経っていたら、仕方がない。残念ではあるけれど、そういうものなのだろう。
高校1年生の時、初めてのアルバイトはショッピングモールの中にあるパスタ屋さんのホールだった。白い制服に赤いサロンをしめて、緑のネクタイをする。
初めてのアルバイト。初めての接客業。ドキドキしていたけれど、とても楽しかった記憶がある。
そのときは、何がそんなに楽しかったのかははっきりとはわからなかったけれど、今思えば、あれは初めての”誰かのために一生懸命なにかをする”という体験だった。
困っている人はいないか、目の前の人に自分は何ができるか、相手はどんなことを求めているのか、どうしたらより心地よくいられるか。わからないまま考える。自分で考えてやってみる。
誰かのために、なにかをしようとすることは、誰かを”ケアしようとすること”で、その場合のケアとは「配慮」や「気遣い」と言い換えられる。
誰かに、配慮や気遣いをすることは、自分自身を配慮し気遣うことと同義語でもあった。
誰かを”ケアしようとすること”で、私は世界とつながれたのかもしれなかった。
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カフェって、もしかしたら、立ち姿なんじゃないか。
先週はそんなことをふと考えていた。
それは「do」ではなくて「be」的な。何をするか、というよりは、どうあるか、ということなんじゃないか。
バーにはバーの立ち方があるように、カフェにはカフェの立ち方があり、それは「カフェをする」というよりは「カフェで在る」ということなのではないか。
カフェで在る、ということは、日常的に(働いていない時も)カフェで在る、ということで、それはそういう姿勢でいる、ということで、その姿勢というのはケアの視点で物事を受け止める、ということで、そういう立ち姿のことを私はカフェ的だ、と呼んでいるのかもしれなかった。
とはいえ、そんなのは、私が勝手にいっているだけにすぎず、そんなの違うよ!という人もいるかもしれない。ただ、私の中の”カフェが好き、カフェで働きたい”という根本は、おそらくこの部分がとても大きく関係しているのだと思う。
ケア、というと、専門的で難しいことのように思える。けれど、相手に笑顔を向けることも、道を譲ることも、荷物を一緒に持つことも、話を聞くことも、どれもが日常的なケアだ。
そう考えたらカフェで在る、ということは、生き方なのではないか。
ケアは、できる人が、できる時にするものであり、無理矢理に引き出されるものではない。そして、ケアの仕方は教えられても、ケアしたいという気持ち自体は教えられるものではない。
そこには自発性が必要で、義務になったらそれはおそらくケアではなくなる。
ケアをする、というのは、心の労働である。良かれと思ってしたことが、よくない結果になることもある。失敗してしまった時にはしょんぼりとしてしまう。不甲斐ない気持ちにもなる。
ときどきは、プツリと出来なくなったりもする。
そんな時には、一回休憩して、また、ゆっくりと立ち上がって。元気のない人に何ができるか、どうにか自分に出来ることはないか、と一生懸命考える。
誰かに支えてもらいながら、誰かのことを支える。そうして世界は緩やかにつながっているのではないか。
16歳の私はそこに直感的に喜びを感じていたのではないか、と思う。
どうあるか。どういう姿勢で生きていくのか。私はカフェからそんなことを学んだ気がする。
カフェである生き方、とても素敵です
ケアをしたりされたり、誰かが誰かを想う気持ちが優しい世界をつくっていく
ケアとはやらなければいけないものではなく、ついついやりたくなってしまうものであると思う