カフェにおける自由
先週はゆかちゃんとはるちゃんにお店をお願いして、東京へ行ってきました。
行ってみたかった「フヅクエ」は、STREETCOFFEE&BOOKSにだいたいいつも置いてある、”本の読める場所を求めて”の阿久津さんのお店で、本を読む時間に特化したお店。
「みんなが心地よく本を読む時間を過ごせるように」というコンセプトだから、読んでいる人に対する配慮がすさまじく、その細やかなルールを自分はどう感じるのだろう(ルールが苦手な私は耐えられるのか?)ということが知りたくて、体感しにいってみました。
フヅクエは、ルール自体はとってもたくさんあるのだけれど、そのどれもが”他の人の本を読む時間に敬意を払う、配慮する”ということの言語化であるために、私にとって窮屈ではなく、むしろそれは”自由を確保されている”という気持ちになり、とても豊かな時間でした。
もしかしたら、私が苦手なのは”ルール”ではなく、”配慮の機会と想像力を奪うようなもの”や、定めた側の”怠惰の正当化”や、”一方の利益を最大化するためのもう一方への迫害”、なのかもしれない。
じゃあ、心地よいルールってなんだろう?どんなものなら不快感がなく、どんなものだと従いたくなくなってしまうのか。体は、どんなときにどのように反応して、どう感じるのか。
この辺りは、引き続き人体実験していこうとおもいます。(誰にも頼まれていないけれど)
カフェは自由だ、とよく言われる。たしかにそうだ。だからこそ、私はその魅力にのめり込んだ。
じゃあ、その”カフェにおける自由”ってなんなんだ、というのはずっと考えていて。
お店が自由に好き放題すること、ではない。お客さんが自由に好き放題する、ということでもない。じゃあなんなんだ。なんなんだ〜!と、ずっと考えていたけれど、そこにやっとひとつの自分なりの答えがでた。
カフェは「他者への配慮の方法において自由」なのではないか、と。
目の前の人に、こうしてあげたい。そう思ったときに、それを実行しても良いとされる範囲が、他の飲食店や、ショップよりはほんの少し広い。そして、その裁量が、現場に立つバリスタに、ある程度任されている。
サービスの内容において、自由。それは決して手を抜く、ということではなく、”してあげたい気持ちを殺さなくてもいい”という意味において自由。その根底には”他者への配慮”が欠かせない。
今は声をかけない、という選択が最良である場合もあるし、相手が話しやすいように間をつくる、という選択がよいときもある。ラテアートひとつとっても、コーヒーの温度にも、渡し方にも、おつりのタイミグ、そのすべてに正解不正解はなく、なぜ、どうして、そうしたのか。それを自分のなかで説明できれば、それがベストじゃなかったとしても、間違いではない。
またその人が来たときに、またそのような状況になったときに、今度は別の提案ができる。ひとつひとつの出来事を分断させず、構築する過程だと考える。
その過程の中で、自分なりの感覚や価値観を反映させられる。
”しなければいけないサービス”ではなく、”してあげたい配慮”において、働き手の頭の中は限りなく自由。
それを、私は”カフェにおける自由”と呼んでいるのかもしれなかった。
自由を愛しすぎて、不自由。
自由か、自由ではないのか、の枠すら気に掛けないひとが1番自由。自由を求めた途端に不自由になるのかもしれない。人生って皮肉。
自分の、不自由なほどの自由主義を、かろうじて社会に還元させる方法。それがわたしにとっては、カフェだった。
自分の因数分解は、していくほどわかるようでわからなくもあり、ときどきは見当違いだったり、のちのち新たな別の発見があったりもする。とんでもなく捻くれていると思っていたことも、不可解だと思ったことも、案外そうでもなかったり、ピュアな感情だとおもっていたものがそんなこともなく、嫌悪していたものが実は愛らしかったりもする。
ニンゲンという生物への興味が、ぜんぜん尽きない。
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コメント4件
フヅクエのしくみ面白いですね!
「ミスマッチな人にとって、とてもつまらない仕組みにする」っていうのがよく考えられていて、これがお店とお客さんとお客さんにならない人、それぞれの自由につながっているんだと思いました。
まずは根底に気持ちがあることが大前提だけど、よく考えられた仕組みづくりが、その気持ちを実現させるために大切だと思わせる事例ですね。勉強になるなぁ・・
豊田の駅前における自由な空間…それが「STREET COFFEE & BOOKS」
支払いのタイミングや注文の列びの向き、日除けのパラソルを動かして調整する人、お話しだけして帰る人…
平和な空間がそこにはある