ふれる、のこと
触覚は、判断しない。
触覚には、正誤がない。
快不快はあったとしても、間違っている触感というものはない気がする。
そのものの存在をそのままに感じ取る、という意味で最も受容的な感覚器官なような気がする。
言語と最も離れているように思える感覚器官。
だから、一番信用している。
触覚には嘘も本当も偽りも真実もない。ただ、そこに在る、実在している、ということだけがある。
否定も肯定もない。
触覚といえば、伊藤亜紗の「手の倫理」には「ふれる」と「さわる」の違いについての記述がある。
「ふれる」は、双方向的な営みであるのに対し、「さわる」は一方的なものである。
「ふれる」は、「ふれられる側」の承諾を含んでおり、「さわる」は、「さわられる側」の承諾を含んでいない。
「ふれる」は、相手を「生」のあるものとして関わり、「さわる」は、対象を「物」的なものとして関わる。
「ふれる」は、共同作業的、「さわる」は一方からの単独作業的。
相手の感触を確かめながら、おそるおそる手を差し出すとき、ふれると同時にふれられる。
そっとふれて相手の形をなぞるとき、自分の形も知覚する。それは相手を認識することと同時に、自分を認識することでもある。
相手を物のように扱うこと、と、相手を生のある存在として関わることは、大きな違いがある。
「ふれる」と「さわる」は触覚的なものだけでなく、コミュニケーションにおいてもいえる。
(そもそも、コミュニケーションは”意思疎通”の意味合いも含んでいるため、一方的なものでは成り立っていないはずなのだが、そうではないものも混合されてコミュニケーションと呼ばれているような気がする。)
お店も、家族も、友人も、一方的な「さわる」的な関わりではなく、「ふれる」「ふれられる」の感覚を忘れないようにしないといけない。
ルールを掲示して張り出すとき、それは「さわる」的だな、と思う。
ルールを手で包んでそっと差し出すとき、それは「ふれる」的だな、と思う。
定型文の挨拶をするとき、それは「さわる」的だな、と思う。
目を合わせて会釈したとき、「ふれる」的だな、と思う。
自分の不安を拭おうと、相手のなかに中に手を突っ込むときには「さわる」的かもしれない。
自分のやわらかいところを差し出して、相手に委ねるとき「ふれる」的かもしれない。
さわる的なやりとりが必要な場面と、ふれる的なやりとりが必要な場面と、どちらもある。
立場や役割、状況に応じて必要なものは違う。
自分の右手で、自分の左手にさわる。そのときには緊張感はさほど感じない。
今度は、自分の右手で、自分の左手にふれる。そのとき、右手にも左手にも、かすかに緊張感が走る。
このときの緊張感を、忘れないように刻み込んでおきたい、と思う。
「ふれる」と「さわる」の違い、なるほど!わかりやすい
ふれる相手(物)と心を通わせる事で心の中で会話をしているようだ
自分で自分自身に「ふれる」、自分との対話みたいだな