斜めにしてみる
ただいまーと家に帰ると、子どもと夫が喧嘩している。
「パパの嘘つきー!ばかー!!!!」と叫んでいる。
こういうとき、おっいいね、と思う。
彼はきっとこのとき「他人とのわかり合えなさ」とぶつかっている。
”自分が言いたいこと”と”相手が返してくる言葉”の論点が違いすぎるとき、なにをどう言葉を尽くそうと、いえばいうほどに伝わらない。もどかしい。悔しい。涙がでる。
そういう体験は、しておいた方がいい。
人と人はわかり合える、というのはそもそも思い込みだ。
基本的に人と人はわかり合えない。なぜなら、人は自分のことすら”わかっていない”生き物だから。
食事の時間になり、まだ怒りのおさまらない子どもの前に長方形の箸置きを置く。
「君から見ると、この箸置きは縦長?横長?」
ぶすっとしながら「縦長」とこたえる。
「じゃあ、パパの位置からみたら、縦長?横長?」
ちょっと興味が湧いてきたのか「横長だね」とこたえる。
「そういうこと。どっちも嘘はついていない。」
そのあと、彼は箸置きを斜めに置き直し「これならどう?」という。これなら、どちらからみても斜め。いいアイディア。それは、物事を白と黒に分けずに、グレーという認識にする、ということの提案だ。
他には、一度席を立ちパパの側から眺めて「たしかに横長だね」と、みてみることもできる。
相手の側に立ち位置を変えてみる、ということをするには、前提条件として「自分と相手の立ち位置の違い」を自覚していなければいけなくて、当たり前のことではあるが、「相手と自分はまったく異なる生物」という認識を持っていないといけない。
大まかに見れば、同じ人間ではあるけれど、だからこそ異なる内的な部分に意識を向けておいた方がいい。特に、同じ言語を扱う人とのあいだでは。
後日、今度は私が子どもに怒る場面があり、その際、彼はこういった。
「ママもちょっとは斜めにならないと!おれも斜めになるからさ!」
私の出した抽象例を、ちゃんと理解してくれていたことに嬉しくなり、思わず彼の要望を半分飲むことにしてしまった。やられた。
斜め、というのは案外いい。斜めに当たった光は、陰影をくっきりと写し出し、濃淡を一度に楽しめる。ひとつのものを同時に、光も影も同時に視界におさめることができる。
もしかすると、私はコントラストのはっきりした世界をおもしろがっているのかもしれない。光の存在が、同時に影を生み出しているような。淡くぼんやりとした世界の輪郭を、はっきりと際立たせるような、そういう光。
正しさなんて、見る方向で変わる。だから、あって、ないようなもの。それはつまり、間違いだって、あって、ないようなもの。
”世の中”だって、あってないようなもの。”現実”だって、”真実”だって、あって、ないようなもの。今生きているこの世界だって、あって、ないようなもの。
自分自身だって、本当は、あって、ないようなもの。
そういうこと。
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コメント4件
斜めの視点、面白い!
つむちゃん、自分の言いたいことだけを主張するだけでなく、相手も自分と同じ様に主張したい事がある事をちゃんと理解できたね
「正義」の反対語は「悪」ではなく、「もう一つの正義」だと何処かの誰かが言っていたな
どちらも「悪」にしないで「斜め」の関係を築ける小学一年生って凄いね
真っ直ぐの様で斜め、クッキリなようでぼんやりした境界線、グレーなんだけど虹色、そんな世界を生きて行こう
読みながら、
のんちゃんの子どもになりたいと思ってしまった 笑
こういうことが子どもに必要な「体験」なんだろうな。
やっぱり私は最近の体験格差に関する記事が
的外れな気がしてならない。