さみしいの味わいかた

さみしい、ってなんだろう。

人によってさみしい、の定義は違うのだろうか。

わたしの”さみしい”は、美しい料理を一口一口、丁寧に味わっているときのあれだな、と思う。

美味しいお皿から、一口食べるごとに、残りが少なくなっていく。おいしくて、しあわせで、いとおしくて、さみしい。

味わう、咀嚼する、その状態は至福で、そのリミットが近づいてくることが”さみしい”。

それはたとえば、自分の気持を言葉にして出すこと、ともいえる。

自分の気持ちを外に出すことは、自分の中身を自分だけで味わうことをやめること、であり、誰かに伝えることであり、それは自分を構成している物質を失うような、それでいてスッキリするような、そういう感じ。

自分を構成している物質、とは、自分が日々感じている感情感覚もろもろで、欲求や、思考や、ふと感じたこと、言語化不能な感覚、などなど。そういうもので、わたしは日々、つくられていて、それをひとつひとつ味わうことを”生きる”と呼んでいる。

それらを外に排出するとき、さみしさを伴う。

それを排出するさみしさ、とは、たとえば妊娠から出産に至るような過程かもしれない。

わたしの中で、わたしだけが感じられていたものが、みんなが見ることのできる世界に飛び出していってしまうこと。そーっと温めていたものから手を離すこと。それは飛び出していった先の世界を信頼すること。

それは、さみしくて、それでいてスッキリとするような、そういう感じ。

たとえば、誰かに自分の欲求を伝えるとする。

それは、誰かに何かを求める、という意味においては必要な行為なのだけれど、伝えた瞬間に、自分の中にいた”わたしの中だけの気持ち”は消えてしまうことになる。

”切望している自分”は、ことばとして外に出した瞬間に消えることになる。ぽっかりとする。

それがわたしにとっての”さみしさ”。

わたしに中にいた、わたしの感情をひとつ、外に手放す。

溜まりすぎていたときには、ときどき出したほうがいいけれど、自分の一部を失った、という喪失感でもあるのかもしれない。失うかわりに、満たされる(かもしれない)というトレードオフの関係であるのかもしれない。

たとえば、それが美味しくないものだったとしても、苦くて不味いものだったとしても、咀嚼しているあいだにほんのちょっとうまみが出てきたりすることもある。案外クセになる、みたいなものもある。

という話を友人にしたところ「ぜんっぜんわかんない」と言われて、わくわくしてしまった。

わからない、というのは、わかるかもしれないを内包している。それってとってもわくわくする。

あのパン屋さんのパンが食べたいけれど、買いに行けばいいのだけれど、買いに行ってしまうと”食べたいなあ、食べたいなあ”という気持ちを感じられないことになってしまう。

わたし、めちゃくちゃ望んでるじゃん、大好きなんじゃん、という気持ち自体が、もう美味しい。

さて、そんなわけで、パンを買いに行ってきます。

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コメント1件

  • 松島 馨 より:

    自分「自分の気持ちを言葉にしてだす」→相手「うん、よくわかるよ」ってやり取りがあるけれど、自分が思っている事の全てを理解してくれてるはずがない
    って思っちゃう
    自分の事は「自分ではよく分からない」、「自分が一番理解しているし、知っている」…どちらなんだろう
    「さみしい」のは他人との関わりがない事
    少し前に読んだ本に「未来の約束があるならば、それまでの間は一人じゃない」って書かれていた
    少し未来の約束を作り続ければ大丈夫?

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