贈るのかたち
奪い合う関係ではなく、贈りあう関係。
贈りあう関係ってなんだろう。
贈るというのは、”どうぞ”と差し出すこと。
ものを渡すことや、言葉をかけることだけじゃない。それはときどき”贈らないというかたちの贈る”であったり、”声をかけないというかたちの贈る”であったり、”受け取るというかたちの贈る”であったりもする。
贈る、というと「なにかものを渡す」というふうに思えるけれど、そうじゃない。
自分側の境界線をすこし曖昧にする、とか、譲歩するとか、ゆずる、とか。そういうニュアンスのほうが近いような気もする。
(隣の席の子、もしかしたら、教科書忘れちゃったのかなあ。あの子も見えるように開いておこう。)みたいな。自分の所有(時間や物質空間や思考)をすこしゆるめること、ともいえるかもしれない。
自分の敷地を頑なに守るために塀を立てるのではなく、なにかあったら他者がすこし入っても大丈夫なように敷地に余白を残しておく、みたいな。
贈る、は、そういうことのような気がする。
ドーナツを半分こするとする。自分を大きい方にして、相手に小さい方を渡すことは”奪い合う関係”というのに近い。反対に、自分を小さい方にして、相手に大きい方をそっと差し出すとき”贈りあう関係”に近い気がする。相手に大きい方を差し出しながら、「大きほうあげるね!」と声に出して伝えるとき、”奪い合う関係”に近い気がする。
”受け取ることが贈る”であったり、”ものを渡さないことが贈る”であったり、”言葉をかけないことが贈る”であったり、”そっとしておくのが贈る”であったりする。「贈る」は行動の名前ではない。動詞ではなくて、形容詞、状態の名前であるようにも思える。
ときどき、他者と贈りあうというのはすれ違うことがある。
”良かれと思って”が、”良くなかった”などということはしょっちゅう起こる。
だから、なるべく、そうならないためには、相手のことを知ろうとすることがとっても大事なかもしれない。
相手のことを知らなければ、気付かぬうちに奪ってしまう事がある。
”愛すること”ですら、”奪うこと”になりかねない。
ああ、この人のこと、よくわからないな、伝わらないな、そう思うときほど、知ろうとしなければならないのかもしれない。
「奪われている」と感じるとき、人は相手に優しくできない。
「受け取っている」と感じるとき、ついつい優しくなってしまう。
あらゆることを「受け取っている」と感じる人は、相手のことを「贈る人」として浮かび上がらせる。
相手が贈っていようがいまいが、自分は受け取っている。そう感じるときに、平穏は訪れる気がする。それは太陽の日差しだったり、知らない他者の配慮だったり、誰かの忘れ物のビニール傘だったりする。
贈る人、が贈る人としてうまれるのは、受け取る人、があらわれたとき。
受け取る人がいなくなった社会は、”贈る人”が見えなくなった社会で、奪い合う世界に近づいているともいえる。
わたしはあなたから、しかと受け取りました。「ありがとう。」
そう相手に伝えることは、相手を”贈る人”としてこの世界に誕生させてくれたということで、受け取り手自身もまた”贈る人”かもしれない。
ただ、湧いている水はただ湧いているにすぎず、その時点では何者でもない。受け取ってくれる人(植物や動物や昆虫や土なども含め)がいて初めて自然の恵みとなる。
贈りあうってなんだろう。もっともっと、向き合って感じていけたら、と思う。
贈りあう関係→相手を想う事→愛なのではないだろうか
「愛されるために愛すのは悲劇」、「何もないけれど全て差し出すよ、手を離す、軽くなる、満ちていく」
見返りを求めない無償の愛、無条件にすべてを差し出すことで心が軽くなり満たされる、ということを歌った歌の歌詞がある
愛を贈りあう、素敵な世界に私達は生きている