素材のこと

駅前のベンチに座って、ゆっくりと目を瞑る。
午前中の暖かい時間帯。私の左側に太陽が降り注ぐ。
「何してるんですか?」と聞かれれば、「太陽光からセロトニンを生成しています」とこたえる。
セロトニンは、自律神経の調子を整え、幸福度を高めることとして有名だけれど、最初はそんな理論的な理由などではなくて「うわあ、、日向ぼっこって心地よいなあ、、ずっとこうしていたいなあ、、」ということに実直に動いていたらそうだった、調べてみたらそうだった。
私の場合、いつも順番は”体感”してから”理論”だ。
身体が感じたことが先にあって、その理由を調べていくうちに(ああ、だからか)などと納得する。
これは身体にいいから実践しよう!などと思うことは、ない。まず、体感と直観があって、そのあとで言語や理論を探っていく。違和感の時も一緒で(何かが変だな)という胸騒ぎがあって、その理由を言語化する中で見つけていく。
今、コーヒー屋さんをしているのも、おそらく何かしらの”直観”があり、その理由はなんだったのかと、ずっと向き合い続けている。その理由を見つけていくなかで、自分の思考の癖や思想、アイデンティティや身体の特色などが浮き彫りになっていっていく。
理論から入っちゃうと、そこに自分の固有性みたいなものが反映されづらいのではないか、と思う。
その人の持っている”素質”がまず先にあって、目の前に”現象”として現れている部分があって、現象として現れられない理由があって、その理由をつきとめて解放していくプロセスがあって、そうしていたら目の前に現れることも変化して、自分の素質が息を吹き返す。
それが、自分を変える、ということなのだろうな、と思う。
ひとりひとりの素質をのびのびと発揮すること。たとえば、働いてくれているゆかちゃんやはるちゃんが、そのもうすでに持っている”素質”を思う存分のびのびと発揮できることは、お店の成長にもなる。
そして、世界中ののびのびとした姿勢は、社会の寛容さにもつながる気がする。
”絶対的な自分”などというものはないに等しく、誰もが誰かしらの影響を受けている。今の自分の輪郭は、自分の持って生まれた素質をもとに、これまで出会った人や環境、かけられた言葉、押し付けられた価値観、そんなものでつくられている。
生まれ持った身体に、その後あれやこれやと添加されているのが人間で、私はその何かが添加される前の、生まれ持ったその人の素材を知りたいのだな、と思う。
あなたというカレーライスには、なにが入っていて、どんな野菜を使っていて、どんな風に調理して、どんな工程を経て出来上がったのか、ということ。どれくらい溶け込んでいて、どれくらい具材の形は残っていて、もともとはどんな素材であったのかということ。どんな形の野菜で、その素材自体の味や形はどんなのだったのか、ということ。
それを知るには、そこに加えられたルウやつくられた工程を考慮して、差し引いていかなければならない。カレーになってしまったら、原型はもうないのだから、もう素材だけを取り出すことはできないのだから、想像でしかないのだけれど。
知ったからなんなのか、と言われれば、特に理由はないような気がする。この”特に理由はない”と思っていることも、きっと向き合い続けて言語化していったら、理由は出てくるのだろうけれど、その手前の”ただ心地よいなあと日向ぼっこを楽しんでいる状態”を、もう少し堪能したい気持ちもある。
幸福を得るために日向ぼっこをする、では幸福は得られなくて、心地よいことをしていたら、それは幸福感を刺激する作用と関連していることだった、ということ。
目的への抵抗、目的を念頭に置かないこと。
けっこう大事な気がする。
興味のあることには、きっとなにかしらの理由がある。けれど、とりあえず理由は置いておいて、自分の興味を放牧してみる、ということなのかもしれない。
興味を放牧して、気の済むまで草を喰み、反芻しながら何度も噛みしめる。
前世は牛かもしれないな。
このまま春になっちゃう?って感じの日ありますね
縁側や車の中だったら起こされるまで眠れそうです
今の世の中は目的を念頭に起き過ぎているのかな
「いい感じに過ごしていたら、いい感じの人生になった」って言えたら良いな
色々やりたい事やって自分を楽しもう
前世は牛?きっと可愛い牛だったのでしょう
私は来生は猫になりたいな