お花のこと

「日常的にお花を飾る人が増えれば、自殺率は減ると思う」

そう話してくれたお花屋さんがいて、びっくりしたことがある。

”私にとってのコーヒー”は、”その人にとってのお花”なのであり、手段は違っても、どちらも根底には平和に対する切実な願望と期待が込められていた。

数年前から、できるだけお店にも家にもお花を取り入れている。はじまりは、いただいたお花を生ける花瓶がなくて、買いに行ったところからだったと思う。花瓶を買ったら、お花を飾りたくなる。お花屋さんというところは、たいてい1本から快くお花を売ってくれる、ということを知ったのもその時からだ。

お花を活けることが日常になり、それによって自分の調子もわかるようになってきた。

自分に余裕がないときは、お花の水を替え忘れがちで、切り花はすぐにだめになってしまう。お花の調子を気にかけたり、水を替える工程を楽しめているときには、余白があり、余裕があり、調子がいい。家も片付いている。

休日に「今日、どうしてもお花屋さんにいきたい、行かないとたぶん無理、耐えられない」という逼迫した感情があらわれることもあり、そのときには余裕がないときが多い。どうにかして、自分を立て直そうとするときにひとつの手段に、いつのまにかなっていた。

自分に宛てたお花を選ぶときの楽しいところは、一切の理由がないところ。理由とか理屈とか根拠とか、どうでもいい。そのときに、気に入ったお花を選び、それに合わせて数本組み合わせたり、もちろん1本だけでもよくて、それはたいてい数百円で買える。数日〜1週間ほどの、中期的な幸福を得るには随分とお手軽だ。

切り花は、私にとっては刹那的でとても良い。

私が手入れをしてもしなくても、いずれ朽ちていくのであり、そこに罪悪感が湧くことはない。最後、捨てるときにチクリとくる切なさも含め、良い。

刹那的である、というのはわたしの中では重要項目でもある。刹那的なものであるほど、その瞬間を愛でられる。

”いずれなくなるもの”という前提に立っている場合と、”ずっとあるもの”と慢心している場合とでは、その対象に対する扱い方もかわってくる。

本当は、すべてが刹那的で、永遠に不変なものなどないのだということを、お花は思い出させてくれる。

ちなみに、樹木荘のお花は「お花は社会を平和にするはず」と話してくれたhanairoさんがゆかちゃん宛てに定期便で届けてくれている。市場で売れ残ったお花たちを買い取って、お花のレスキューという活動をしている。すこし短かったり、曲がっていたり、商品としては選ばれなかった子たちを、まとめて掬って、その歪さやゆがみも含め、愛でてくれる人のところへ。

お花も、コーヒーも、きっと無くても生きていける。けれど、それらがある場合と、ない場合とでは、”何か”がずいぶんと異なる。

お花じゃなくても、コーヒーじゃなくてもいい。

各々が、それぞれの、”何か”を見つけられたらとってもいいな、と思う。合理的でない、効率的でない、でも確実に存在している”何か”を見つけられたのなら。自殺率も、事件も、きっと減るような気がする。きっと。

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