分からないことを分かっていないと

先日見たドラマの言葉が印象的で、頭の中でリフレインしている。
「分からないことを分かっていないと、分からないことは分かりません」
『テミスの不確かな法廷』で松山ケンイチ演じる安堂裁判官のセリフ。
自分が分かっていないことを分かっている。無知の知。とっても大切なのに、つい忘れてしまいそうになること。
わかっていると思ったことも、実はわかっていないのかもしれない。
わかっていない部分がわかる、ということが”わかる”ということなのかもしれない。
出発点は、いつもここにある。
わかった、と思った瞬間に、探究心は薄れる。
”ずっとわからない”ことは、向き合い続けられる。
どの解像度でその物事に対峙しているか、ということかもしれない。
どのくらいの鮮明さでそれを見たいのか、ということかもしれない。
人間は、自分のことを”和かっている”つもりになっているけれど、一番わからないのは自分自身のことだったりする。自分自身のことがわからないのは、客観的にみることが一番困難なのが”自分という人間”だからなのかもしれない。
ちなみに、このドラマの松山ケンイチはASDの診断を受けている裁判官という役。ASDとは(自閉スペクトラム症)、生まれつきの脳機能の偏りによる発達障害の一つで、対人関係やコミュニケーションの困難、強いこだわりや感覚過敏を特徴とする。
なぜ、みんなが出来ていることが自分には出来ないのか。
なぜ、みんなが耐えられることが自分には耐えられないのか。
なぜ、このこだわりを捨てられないのか。
なぜ、興味を持ったことしか出来ないのか。
強弱はあれど、”普通であれない自分”をうしろめたく思ったり、責めたりすることもある。だけれど、それが脳の特徴であるとすれば、その特徴を活かす環境に身を置くのが一番いい。それには周りの理解はもちろんのこと、自己理解もとても大切になってくる。
「分からないことを分かっていないと、分からないことは分かりません」
私が”ヒト”に興味を持ち続けてしまうのは、自分のことが”わからない”からなのだろうなあと思う。
わからないことは、ずっとおもしろい。







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