360°ひねったら正面だった
「操作されている」と感じてしまう場面が、日常には結構ある。
大きなショッピングセンターでは、お客さんをどういう順序で周らせるかを設計段階から考慮してあり、予想外はあれど緻密な計算によって売り手の都合のいいようにデザインされている。
購買意欲をそそるために演出した広告、人の行動や思想を自分たちの意図する方向に自然に促すメディア、なぜだか選んでしまう限定メニューだって、そのひとつかもしれない。
世界はそんなもので溢れている。
自分では選んでいるつもりでも、本当は誰かに「選ばされている」ことの方が多いのかもしれない。
大多数の物事が、誰かの計算の上に成り立っている。気付かせないように計算して、自然に、さも、自分が選択したかのような満足感さえも一緒に提供してくれている。
日々、自分の意思とは無関係に、私たちはいろいろなことを選ばされている。
「自然に選ばせる」の効果を利用して、世の中をよりよくする仕組みとして社会に取り入れられていることもあれば、利益のために工夫されていることもある。
そんなことを考えていたら、思い当たることがあった。
小学校から中学校に上がった時に、猛烈に感じたあの違和感。今思えばあれだってそうだ。「テスト」というものの存在が急激に変わった時のこと。
小学生の時はテストなんて出来ようが出来なかろうがどっちでもよかったのに、中学生になったらいきなり順位をつけられるようになった。
あれは「順位」という仕組みよって「なんか頑張らなきゃいけない」を誘発し、「頑張らせる」というとても有効な手段だった。
これまで、焼却炉に突っ込めばいいと認識していた紙切れ1枚が、そうもいかなくなってしまった。
おそらく当時から根本的な部分でひねくれていた私は、自分の意思とは無関係に「なんか頑張らせる流れ」がどうにも気持ち悪く、抵抗するかのようにテストや授業態度で散々な結果を残していたんだった。
「なんで?なんで勉強しなきゃいけないの?将来この公式って使うの?理由がわからないのになんで勉強しなきゃいけないの?」と、結構本気で言っていた気がする。
「このままでは、私立の単願でも行ける高校はありません。」と面談の時に言われても、ふ~んそうなんだ別にいいや、くらいに思っていた。
2年生になってようやく「どうやら、大好きな友達と同じ高校に行くには、勉強しなきゃいけないらしい」ということに気付き(遅い)最終的には晴れて女子高生になれたのだけれど。
今思えば、昔からそうだった。「暗黙の了解」を察知しながら、その流れにうまく乗ることができない。
本当にそれって自分にとっても必要なの?と、問い続けてしまう。
おかしい、と感じたものを、おかしい、と思い続けてしまう。
納得できるまで。
ひねくれている。ひねくれすぎている。一周回って、正面を向いているような気さえしてくる。
社会に出たら理不尽なことなんて山ほどある。自分の意思とは無関係に選択しなければいけないことも、矛盾に気づきながらそれを飲み込まないといけないことも。
いつまでも子どものままではいられない、とは分かっているけれど。そんな大人になら、ならなくてもいいかなとも思ってしまう。
まあいいや。一周回って正面を向いたまま、もう少しこのまま歩いてみよう。
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コメント4件
上手いなぁエッセイ❣️
私も操作されています、のんちゃんに
私の人生、殆ど操作されっぱなし。
操作する守備範囲のなんと狭いことでしょう❣️
まあ、それでも人並み以上に幸せだと思っておきます。
のんちゃんの発信は面白すぎて
いつまでも読んでたいね。
ひねくれてるんじゃなくて、
めちゃめちゃ純粋なんやと思うなぁ。
僕は
「手のひらで転がされてる」風で
転がしたいタイプなので、
「操作されいる」って感じ分かるなぁ。
分かった上で行動してたら、それはもう
操作されてない。って思う事にする。
本音と建前の狭間で生きなきゃならないのも
息苦しいよね。
サラリーマンは余計かも・・・。
コーヒー飲みたい時に駅前に足が向くのは
完全に操作されてるけどね。
自分が心地いいなら、操作されよっと!