便利と不便の再認識
スマホを壊してしまった。
いつもなら多少の傷で済むと思っていた程度の衝撃だったが、今回は打ち所が悪かったようで一瞬で天に召されてしまった。
凹む。いや、凹んだ、3時間ほど。
半年前に新品に替えた「便利」を失ってしまうのは悲しい。あらゆるものにログインできない(パスワードを覚えていない)ことに苛立ちも感じる。
だけれど、数時間後には(あれ?チャンスじゃない?)と開き直っていた。これは偶然やってきた、スマホのない生活を体験するチャンスかもしれない。
いつも暇さえあればSNSやニュースをチェックをしてしまう自分にも、すぐに検索をかけてしまう現代人にも、電車の中で一斉にスマホをいじっている光景にも、なんだか違和感を感じていたはずだった。
違和感を感じていたのにも関わらず、こんな機会がなければ「スマホのない生活」をしばらくしてみようという気にはならなかった。
そもそも、机の前で椅子に座って落ち着いてチェックしていたら、起こりえなかった事故なのだ。うっかり落としてしまったのは持っていく必要のない場所に持って行ったり、開く必要のないタイミングで開いてみたり「しなくてもいいこと」をしていた、無意識の動作によって引き起こした事故。
無意識の動作だったのであれば、おそらく、それは「しなくてもいいこと」だったのだ。その時間を余白にしていたら、生まれた感情も、見られた風景もあったのかもしれない。
というわけで、およそ5日間ほど、スマホのない生活をしている。
便利なもので、ラインやインスタグラムなどのアプリはパソコンからだいたいチェックできる。スマホのない生活、とはいえ緊急事態や保育園からのお迎え要請の可能性があるから、完全に「ない」には出来ない。通話はかろうじて昔のスマホに繋がるようになっている。(なんて便利なのだろう)カメラはしばらく使っていなかった一眼レフを取り出してみている。
家にいる時とお店にいる時は、スマホが無くてもパソコンがあれば特に支障はない。っていうか平日なんて、家にいるかお店にいるか、移動しているか、しかない。頻繁に連絡を取る必要がある人もいない。帰宅後にチェックすれば事足りる。
唯一、不便を感じるのは出先での待ち合わせや、子どものムービーを気軽に撮れないこと。細かいことをいえば行ったことがない場所に行く時のナビや、お店の定休日をその場で検索できないこと、SNSはその場での投稿ができないから臨場感がないのと、頻度が減る、くらいだろうか。
今や、スマホ1台あればなんでも出来る。
なんでもできるからこそ、それを失った時に何にも出来ない!ということにならないように「あっても無くてもどっちでもいい」くらいの頼り加減にしていよう、と気づくきっかけになった。
ちなみに「スマホを落として凹む」から「あれ?チャンスじゃない?」に切り替わったのは、人間としての機能の低下にゾッとしたから、である。
あ〜やっちゃったな〜最悪〜、、と凹みながら、パスワードの再設定などをひとしきり終えて(今日のところは疲れたから寝ちゃって明日にしよう)とベットに行こうとして、ハッとした。
アラームない!どうやって明日起きるの?!そう思ったら、うかうか眠れなかった。スマホがないために「起きられない」どころか「安心して眠れない」なんて、もうゾッとするくらいスマホが生活の一部だったのだということを思い知った。
このままだと人間としての機能や本能が衰退していくかもしれない、と思うとさらにゾッとした。
とりあえず、一番最初に私に必要なのは目覚まし時計だ。スマホよりも先に目覚まし時計を買いに行こう。
スマホなし生活いいかもね。
目覚ましで起きてるのは意外だなぁ☺️
僕は念じて寝れば好きな時間に起きられる
特殊能力があるから、目覚ましいらず
便利=豊か ではないからねぇ。
世の中どんどん便利になる分
他で脳みそ使わんと溶けちゃうぞって
思っちゃう
だからハンドドリップのコーヒーって素敵。
温度・香り・豆の状態・飲む人の好み
いろんな事を感じながら、時間を掛けて
丁寧に淹れた一杯。
またおしゃべりしに行きます。