無粋な言葉は最小限でいい
不意打ち的に梅雨がやってきてしまった。先週は、いつにも増して穏やかな1週間だった。
しとしと、ポタポタ、ぽつんぽつん、ピタピタピタピタ、、、雨音は、どうしたって、どうもしなくたってドリップコーヒーを連想させる。この季節は、きっとコーヒーの季節なのだろう。
少し前に、コーヒーの音に関するインスタグラムを投稿した。
「コーヒーを淹れるときの音も、コーヒーを楽しむためのひとつのアイテムです。ぜひいろんなコーヒー屋さんで耳を澄ましてみよう!」というような内容だ。実はこれには裏のメッセージがあり、「大きな声でのお話は控えよう」「周りにいる他の存在に耳を傾けよう」つまりは「自分たち以外の存在を能動的に感じてみよう」という主張があった。
今の時代だからこそ、受動でさまざまな事が流れてゆく時代だからこそ、感染症がなにやら流行している時代だからこそ。そんな時間が必要だ。自分たちの好きなように出来るサイズ感(例えば自分を中心とした半径1mくらいだったり、ここまでは許容されるであろう声の大きさ、振る舞い、動き)を、自分たちで見当をつけなくてはいけない。
それができなければ、世界は禁止事項で溢れ、制約は事細かに決められ、より窮屈で退屈で、面白みのない世の中になっていく。そうならないためには、自分たちである程度の算段をつけなければいけない。(日本人は本来それが得意だったのではないか)
もしかしたらそれを言葉にしなくても、「音に耳を澄ます」という回りくどい言い方で、うまく優しく丸い形で伝えられるんじゃないか、と思っての投稿だったのだけれど、そこまでは伝えきれなかった。っていうか、おそらく誰にも伝わっていない。完全なる自己満足だった(爆発)
ところで、こういう裏の意図のようなものを言語化して伝えると、途端に無粋になるから不思議だ。タネ明かしが面白い、とも思うのだけれど、なんとなくスマートなカッコよさは消え失せる。
「こだわり」を贈り手が言葉にすると、途端にチープになる事にも似ている。
受け手が「こだわっているなあ」と感じているときはには、贈り手に対するリスペクトも込められている。ところが、贈り手が「私達はこんなにこだわっっっています!」と主張してしまうと、一気に野暮になる。本当にこだわっていることは、言葉にしなくても雰囲気や装いで相手に伝わるものだ。
「こだわり」を言葉にしてしまうときには、本当に伝わっているのかどうかが不安なときだ。本当に伝わっているのかどうかが不安、ということは、まだまだ受け手に対する信頼が足りないのかもしれない。インスタントな関係では、信頼とリスペクトは構築できない。
ちょっと前、とても雰囲気のいい粋なお店に、「注意事項の張り紙」を見つけたときには、胸が締め付けられる気持ちになった。きっと、あの店主はそんなことをドアにも客席にもペタペタ貼りたくはなかったはずだ。そうしなければ止む終えない状況になってしまい、心を殺して記載したのかもしれない。日々それを見るたびに、1mmづつ心を削っているのかもしれない。
大勢の人に正確に伝えるためには「言葉」にしなくてはいけない。明確で、分かりやすく、余分なことは書かないことが大切だ。だけれど「明確な言葉にすること」だけが正解なのか、と言われるとそれも違う。
信頼とリスペクトを構築していける関係なのであれば、無粋な言葉は最小限でいい。それは「言葉」に敬意を払うこと、でもある。
出来れば、極力、言葉はやさしく、まるく、あたたかい温度で構成されている方がいい。私はそういう世界で生きていきたいのだけれど、きっと全世界の人とは共有できないから、せめて身の回りの同じような感覚の人に伝えられるように、自己満足で爆発しないように頑張ります。
あ、、そろそろ6月の予定を更新します。おそらくいつも通りです。
では、今週も頑張りましょー♪
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コメント4件
「この写真の意図は?」って思ったけど、それを聞くっていうのも無粋ですね。
相変わらずのんちゃんらしい投稿で楽しくなりました。
図々しくも、のんちゃんらしいと表現して申し訳ないです
それに決して楽しい投稿でもないのかも知れない。
人の発するものの真意は何なのかって
難しいけど、考えることは楽しい。
昔、恩師より『人の言葉をよく咀嚼しろ』と
言われた事を思い出した。
なぜそのような事を言うのか、よーく噛めと。
必要な物は吸収し、いらない物は排泄しろとの事。
否定したり、拒否したりは簡単にできる。
でもその言葉の本質をしっかり見ないといけない。
だからいつも、のんちゃんの投稿が楽しくてたまらない。
文章を書くのは苦手だなぁ。
またゆっくりお話ししましょう。