コーヒー屋が出来ること
(今日、いつもよりほんのすこし元気がない気がする。気のせいだといいけど、、)
お客さんが来てくれたときに、何かを感じることがある。
あの時ひとこと、声をかければ良かった。「調子どう?」と聞ければよかった、と反省することもある。ちくちくとした後悔に変わることもある。
人は、他人が思っている以上に何かを抱えている。
誰にも言えない事を、ぐっと堪えていることもある。それが破裂しないように、そっと抱え続けていることもある。自分で優しく抱え続けていたい、という人もいる。だから、無理に覗こうとしてはいけない。
だけれど、もし、それが大きくなりすぎて爆発しそうになってしまっていたら、誰かにそーっと圧抜きしてもらってもいい。すっきり、きれいになくなる事はないかもしれないけれど、吐かなければ酸素の入り込む余地もない。
そういう相手が、誰にとっても、一人だけでもいたらいいなあと思う。それは、家族かもしれないし、友人かもしれないし、パートナーかもしれないし、動物かもしれないし、植物かもしれないし、もしかしたら街の単なるコーヒー屋かもしれない。
きっと、なにも解決できない。だけれど、ただ聴くことは出来る。
街の単なるコーヒー屋は、ただ、コーヒーを飲みに行くところではない。気分の下がったときこそ、沈んでしまったときこそ、訪れるべき場所であるように思う。
「美味しいコーヒー」が誰かにとっての受け皿であれるうちは、コーヒーを淹れ続けたい、と思う。
コーヒー屋として私が出来ることは、決して多くはない。だからこそ、出来ることを、遂行するのみ。
それしか出来ない。それでいい。
のぞみさん
昨日、もやもやかなしいことがあって、家に帰る前にちょっとどこかに寄りたい、と思ったときに、昨日はお休みなんだけれども、streetcoffeeandbooksさんに行きたい、のぞみさんの前なら悲しいままでいられて、すこしぽろりとこぼせて、優しいコーヒーをいただけるなぁ、なんて考えていました。本当にかなしいとき、だれも味方がいないようにかんじるとき、暗いきもちでもいきたい場所があるってわたしは本当にすくわれます。
いつも、ほんとうに、ありがとうございます。
昨日は結局、塩ラーメンを食べにいきました(笑) 店員さんのかんじがとってもよくて、お腹もあったかくなってすこし元気になりました(^ν^)