「待つ」から得る
「今日も美しいねえ」と言いながら、滴るコーヒーを眺める時間は格別である。
時々コーヒーを注文される際に、「時間かかります?」と言われることがある。そんな時にはちょっと長めに見積もって「5〜6分かかります。」と伝えている。
駅前という立地上、急いでいる人がいるのはやむおえない。予定通りにいかなければ次の電車は15分、バスになれば1時間以上待つことも珍しくない。これを逃したら、遅刻してしまう!という状況の場合、お店にスピードを要求するのは当然で「待つのであれば結構です」という心の声が聞こえてくる。
間に合うのか、間に合わないのか。足先で秒針を刻むように待ってもらう時間は耐え難い苦痛ではないか、という気がするので、お店としては「ぜひ、また時間のある時に!」という意味を込めて、少し長めに時間を伝えている。
「待たされる」という感覚は苦痛なものであり、我慢する、忍耐する、という意識を伴う。
反対に、コーヒーを淹れる時間が愛おしい人にとって、その3分は美しく、官能的で永遠に眺めていたいほど優雅な時間である。
滴る赤褐色の液体を眺めて、小さな音と波紋に意識を集中させる。香りも、音も、映像も、どれをとってもうっとりするほど美しい。
「待たされる」のか「待つ」のか。同じ3分であっても、こんなにも対極にある時間を過ごすことになる。「感じる」というフィルターを通すだけで、世界は色鮮やかになる。
これを人生に当てはめた場合、感性に相当な差が出てくるように思う。
便利で早いものを求められる現代において「待たない」ということは、基本的には良いこととされ、その結果より一層「待てない」人が増えていく。「待たない」ということは、訪れるものをそのままに受け止めて感じる、という受動性を遠ざけるということ。
「待つ」ということは、主導権を相手に受け渡した状態で、委ねること。委ねるけれど、「待つこと自体」は強制ではない。途中で「待つのをやめる」という選択をしたっていい。
「本を読むようになって、相手を許容する幅が広がった」と伝えてくれた人がいた。言われてみると、本を読むことと「待つ」ことは似ている。本の中では、反論があっても、異議があっても、相手(書き手)の言葉をじっと待つしかない。相手のペースで紡がれる言葉を、ページをすすめながら、能動的に待つ。
本を読むことは知識を得るだけでなく、対人関係においても、訪れるものをそのままに受け止めて感じるという受動性を養っていること、といえるかもしれない。
「待てない」ということと「狭量」ということが関係しているとしたら、「早い」を求めすぎる社会はますます対人の軋轢を生むことになりかねないか、と単なる街のコーヒー屋ながら心配している。
「待つ」ことを、時間の浪費と捉えるのか。感性や許容を養う時間と捉えるのか。
待つ、待たない、待てない。その場その場の取捨選択に、もっと意識を注いでみたい、と思う限り。
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