予想の外側

今日も、おもしろかったな。
そう思いながら帰宅する30分が、とても良い。
先日、よく晴れた日の午後。コーヒーを頼んでくれた御婦人が「ちょっとお湯入れてくださる?」といって差し出したのが金ちゃんヌードルだった。うわあ、まじか、最高じゃん。こんな晴れた日に、お外で食べるカップラーメンはきっと美味しい。お腹がとってもすいていたのかもしれない。
人のカップラーメンを作るのは緊張感がある。小袋のかやくやスープをちゃんとすべて入れきってあげたいし、お湯の量も適切に入れたい。あいにく、こちらはコーヒー屋なのでお湯だけは豊富にある。
「ありがとう」そういって、爽やかに去っていった姿を見送る。
”予想の外側”という未知がいつでも目の前にやってきて、私はその都度、そのパターンを目に焼き付ける。
この前、ご高齢のチャーミングなおばあちゃんが、ベンチから立ち上がるときに「せーの、えい!えいい!」と、掛け声をかけていた。なんてチャーミングなのだろう。
そうか。以前、立ったままコーヒーを飲んでいたおじいちゃんにベンチを勧めたところ、肘掛けのないベンチなんぞに座ったら一生立てない、と言っていたことがあった。
立つときの支えのないベンチに座るというのは、高齢の方からしたら賭けのようなものなのかもしれない。掛け声に見とれている場合じゃなく、さっと腕を差し出すべきだった。その光景を目に焼き付け、今度立ち上がりにくそうにしている人がいたらさっと腕を差し出せる人間でありたい。
駅のお手洗いはどこか?と聞かれて、口頭で答えたときに、伝わらなくて相手を怒らせてしまった記憶から、それ以降なるべく近くまでついて行って説明するようにしている。それは時々、過剰であるかもしれず、言われればいけるから!と気を悪くさせてしまうこともある。
こちらの勝手な配慮は、相手にしてみればときどき”迷惑”にもなりえるし、うっとおしいことであるかもしれない。けれど、ちょっとおせっかい気味であることもまた、街が空虚にならないことにおいて必要な重なりでもあるような気がする。
芝生の上でサワガニを遊ばせているおじちゃんも、ごろごろと転げ回る我が子も、小銭を拾ってうれしそうなおばあちゃんも、青空の下ではじまるささやかな演奏会も、日本酒を片手にコーヒーを頼むおじちゃんも、掃き掃除の極意を教えてくれるおじいちゃんも、どの光景もおもしろい。
”予想の外側”は、ときどき”困惑”も連れて来るし”疑問”や”後ろめたさ”、”居心地の悪さ”や瞬間的な”不快感”を与えることもある。
それも含めて、おもしろい、と言い切るには、自分側の心理的余白や視点の豊富さ、主観に感情を持っていかれないよう俯瞰する必要がある。
いまのところ、咄嗟にそれが出来ないこともあるけれど、じわじわといろんな視点を増やせるよう想像力を働かせていきたいし、自分側の余白も保っておきたい。
自分にとっては不可解なことも、きっと誰かの理にはかなっている。
できるだけ、いろいろな光景を目に焼き付けておきたい。
街はいつだっておもしろい。毎日居ても飽きない。人と人とが交差していると何かが起こり、その何かをいつも見ていられる、というのがここにいる最大の報酬かもしれない。
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