メンテナンス

ときどき、休みの日にエスプレッソマシやグラインダーの掃除をする。
日々の清掃では取りきれない内部のコーヒー粉を取り除く。劣化してきたパーツを替える。ネジを外してガボッと部品を外し、コーヒーの溜まりがないように。
そうやって黙々と掃除をしていると、いつも思う。
自分の頭の中もこうして、ガボッと取り外して、溜まった不要物をブラシでジャッジャと掻き出して、ボロボロになったパーツは交換して、スッキリとクリアに、いつだって濁りのない脳にできたらいいのに。
想像の中のその作業は、なかなかにグロテスクで、ちょっとユーモラス。しかも、その作業は、誰かに任せられるものではなく、私が私を頭上から見下ろし、頭をぱっかりとひらかれている方の私に問いかけながら行われる。
「前頭葉のこの辺、最近、滞りすぎじゃない?」「ああ、それね。あの件がずっと引っかかっていたからなあ。」「まあ、サクッと、掻き出しておくね。」「うん、よろしく。」
このような感じで、私が私と会話しながら、微粉やこびりついた油分、蓄積したなにか、そして綻んだ血管やパーツをきれいにしていく。
「よし、完了!」かちゃりと頭頂部をはめなおす。
そうなった後には、もう、脳内はスッキリ気分爽快。判断は的確で、歪みにも捻れにも、すぐに気が付ける。自らの思考の癖を考慮した上での認知ができ、透明度高くあらゆる物事を見ることができる。
。。。
などということが出来たらいいのになあ、といつも妄想する。
現実にはそんなことはできないのだけれど。そんなイメージをしながら、音の無い空間で一人きりで過ごす。音のない空間、というのは言語のない空間、とも言い換えられる。聴覚でいう音と、視覚でいう音、どちらも作為的ではないほうがよい。
一人っきりで、というところも大事なポイント。(欲をいえば閑静なコーヒーがあると、なおいい)
それができるところは、誰もいないの家の中だったり、自然の豊かな場所だったり、車の中だったりするかもしれない。(カフェもいいけれど、なかなか適したカフェがないのも事実)
そうしてイメージしていると、実際に”メンテナンス”したわけではないのに、イメージの濃度分だけ、ほんの少し脳内がクリアになるような気がする。
本当は、0.1ミリの蓄積もないよう毎日きれいにしておくことが望ましいけれど。忙しい現代人には難しい。だから、ときどきは、そういう時間を意図的に作った方がいい気がする。
加えることで誤魔化すこともあるし、一時的なドーパミンで麻痺させこともあるけれど、ときどきは思考を”抜く”ことでスッキリとしておかないと、と思う。
蓄積されたそれらはこびりつき、やがて自分の一部と化してしまう。それは、自分の可動域を減らすこと、ともいえる。そして、それは、自分の自由を奪うこと、ともいえるかもしれない。
自分で自分の頭の中をメンテナンス…面白い
自分自身の事を解っていたら簡単そう?
自分自身では解らない事も沢山有りそうね
アンパンマンの様に「新しい顔」に取り替えるのが簡単なのかな?
脳は?記憶は?→アンパンマンの顔はクローンなのかもʬʬʬ
人間にはひとりになれる場所、時間がやっぱり必要なのですね