能動的に受動的
カフェは繊細な職業だなあと思う。
押しすぎてはいけないし、引きすぎてもいけない。お客さんとお店側の絶妙な距離感が良いところでもあり、難しいところでもある。
いつまでたっても正解がわからないし、いつまでたっても(あの時の言動はベストだったのか?)という疑念が拭えない。身体以上に心を遣う仕事。それがカフェなのだと思う。
技術や知識は、日を追うごとに必ず成長する。ちいさな1歩だとしても、確実に進むことは出来る。だけれど、心を遣うもっとも大切な部分は、ただ日々を過ごしていても成長はしない。意識していないと指の隙間からこぼれ落ちるように時間は流れていってしまう。
個人的には、カフェは大まかに2つの成分がある、と思っている。
1つ目は、発する成分。「自分たちのしたいこと」を通して、伝えて、そこに来てくれる人を笑顔にする。
2つ目は、受け止める成分。「お客さんがどうしたいのか」を汲み取って、そこに来てくれる人を笑顔にする。
発する成分が強いカフェは、能動的なカフェだと思う。受け止める成分が強いカフェは、やや受動的であるような印象。
発するカフェと受け止めるカフェは、ばっさりと二極化しているわけではなく、どちらにもどちらの要素も交えつつ、比重の大きさによってグラデーションのようになっている。ちょうど中間みたいなカフェもきっとあるし、言葉では発していないけれど行動で発しているカフェもある。
どちらが良い、ではない。その日の自分にぴったりのカフェに行くのが良い、と思う。
君のお店はどうなのだ、と言われれば「能動的に受動的なカフェ」を目指している。前のめりに、受け身でいる。自分から相手に働きかける動きは最小限にしつつ、受け止めるのを主とする。ただし、ただ立って待っているのではなく、両手を広げて待っている。受け止めます、という意思表示を積極的に出していく。
そういう姿勢で居たいなあと思っている。
そういえば、昨日銀行に行った時のこと。1FのATMで操作に困っているおばあちゃんがいた。
周りの人に操作方法を聞こうとするも、大抵の人が急いでいる。通帳やお金のことだからあまり近寄るのもいかがなものか?と周りも少し困惑している様子。私も例に漏れず時間の余裕がなかったから対応出来ずに申し訳ないなと思いつつ、用事ついでに窓口に伝えに行く。
「ATMで困ってる方が居たので、様子をみてあげたほうがいいかもしれません」
「ああ、困ってたら電話で連絡が来るので大丈夫かと思います、ありがとうございます!(とびっきりの笑顔!)」
そうか、なるほど。受け答えひとつで、基本スタンスは垣間見える。その時、もしかしたら動ける人がいなくてめちゃくちゃ忙しかったのかもしれないし、事情はわからないけれど。なぜ見ていないのに、大丈夫かと思ったのか。
日本の構造とよく似ているな、と思った。
声をあげなければ、助けてはもらえない。面倒なことにはなるべく巻き込んでほしくはない。では、声のあげ方もわからない人はどうなる、、?隙間からこぼれ落ちていきそうになっている人に気付いてあげられる関係性は、どんどん築きにくくなっている。
その後、気になってもう一度1階に戻ると、もうおばあちゃんの姿はなかった。諦めてしまったのかもしれないし、誰かが教えてあげたのかもしれない。結局はすぐ対応しなかった自分だって、一緒だったのだ。申し訳ないことをした気持ちでいっぱいになる。罪悪感とも後悔ともちがう、うしろめたさの正体はなんだったのか。
能動的に受動的でいることは、見守ること。求められたら応える。先回りしておせっかいをするのではなく、まずは見守る。いつでもどんなことでも聞いても大丈夫そうな柔らかい雰囲気を醸し出しておく。両手を広げておく。
なんだか、子育てにも似ている気がする。
そんなことを考えながら、今週も精一杯両手を広げて頑張ります。よい1週間になりますように。
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コメント2件
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たまごサンドさん
記事、みました。ずっこけました。最高です。
一つ事情が変わるだけで、物事は一変しますね。自分が知らない事情が、何かある可能性もある。物事の全てを知ることができないから、絶対に誤解も不可解もいつだって起こりうる。面白いです。
どういう立場・視点が正しいのかを突き詰めるよりも、自分以外の立場、視点、価値観があることを理解し、受け止めること。その上で自分の考え方を謙虚に、そして覚悟を持って認められるのがカッコいいですね。
「2つの視点」という意味で興味深かった記事です。
https://note.com/itakuratoshiyuki/n/n9e7a6e7430f9