6月の予定

6月の予定です。

《STREET/駅前》

火水木金 7時ー16時

土    10時ー16時

《ROJI/樹木荘》

水木金土日 10時ー17時

6月もいつも通りの感じです。

よろしくお願いいたします。

お腹がいっぱいではち切れそうなときに世界で一番美味しいものを食べても、”感動するほどの美味しい”にはならないような気がする。

反対に、お腹がすきすぎて今にも餓死しそうなときに食べるふつうの塩むすびは、”感動するほど美味しい”になりそうな気がする。

そう思うと、”感動するほどの美味しい”は、双方的な営みともいえるのではないか、と思う。

足りていないものが得られたとき、じわじわと快が侵食していく。

足りているものをさらに接種したとき、受け取りきれずに余剰として排出されていく。

以前、たまたま行った街のお花屋さんが、何気なくお花を1本おまけしてくれて、帰り道で大泣きしたことがある。こちらの心情などはなんにも知らなかったはずだけれど、「傷んでしまいそうなお花があったからよかったら入れときますね〜」くらいの、本当に何気ないことだったのだけれど。そのときの自分がいっぱいいっぱいで、知らない他者のほんのちょっとした優しさがこころに沁みた、ということなのかもしれなかった。

かなしい気持ちのときに誰かが優しくしてくれたことは、きっと忘れない。いや、忘れてしまったとしても、身体の中に刻み込まれ、自分の一部となる。

普段だったらさらりと受け取ってしまう些細なことにも、心の底から救われることがある。

”不足”は、”受け取り方”に大きく影響するのかもしれない。

今の社会は、物質的には”足りている”である可能性が高く、精神的には”足りていない”である可能性が高い気がする。

受け取り方、ということに焦点を当てた場合、”物事は双方的な営みである”ということに脳内で変換されていく可能性がある。他者から自分に向けられていた矢印(相手→自分)は、自分と相手の両側からみた事象(自分→ ○ ←相手)ということになる。ひとつ間に「○」が入ることにより、心情は大きく変わる。

相手がものすごく美味しいものを作ってくれたとしても、自分がお腹がいっぱいだったら食べられないのだし、そこらへんの余ったものを手渡されたとしても、お腹がぺこぺこだったらなによりも嬉しい。

1週間カフェインを抜いていたときのコーヒーは、びっくりするほど美味しい。真夏の干からびそうなときにのむアイスコーヒーは、身体に沁みわたる。品質はもちろん影響する。その上で、の話として。

不足か満ちているかは、本人にしかわからない。いや、本人ですらわかっていないこともある。だとしたら、相手の過不足など知るよしもない。

もう、受け取り方は委ねるしかない。

カフェ巡りの3件目であったとしても感動するほどの美味しいコーヒーをいつか淹れられたらいいけれど、それよりは相手が切実なときに何気なく差し出せるふつうのコーヒー屋でありたい。と思う。

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コメント1件

  • 松島 馨 より:

    いつも通りの営業…助かります
    物質的には満たされているけれど精神的には満たされていない、そんな人だらけの世の中な気がします
    「手放す事で気持ちも軽くなり心が満たされる」そんなこともあるみたいですよ

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