見る、観る、看る、視る
「みる」とひとえに言っても、実にさまざまな「みる」がある。
視覚的な、見る。
全体を見渡すときの、観る。
世話をするときの、看る。
考察するときの、視る。
動作は同じだったとしても、それらの意味はまったく異なる。
例えば、接客業であれば「お客さんのことを、よくみる」ことが大事だったりするのだけれど、その場合の「みる」は、ただ視覚的に「じーっとみる」ことではなくて、相手のことを想像して、考察して、ケアするような複合的な「みる」である。
例えば、いつもブラックを飲んでいるお客さんが、甘いドリンクを注文したとする。それは、ただ単に「甘いものを飲みたい気分だった」だけかもしれないし、「とても疲れていた」のかもしれない。「考え事をして糖分を欲していた」のかもしれないし、低血糖に陥っていたのかもしれない。
それらを、表情や仕草や発した語句から想像して、どんな言葉をかけるべきか、分からないなりに一生懸命考える、あらゆる可能性を想像する。そこまですることを、私は「お客さんのことを、よくみる」と定義する。
「動詞」を単一的に処理するのではなく、複雑に捉える。
「きく」ということだって、問うのか、言葉を受け止めるのか、耳を傾けるのか、心を傾けるのか、ということで全く違った意味合いを持つ。
極論、コーヒーを淹れる、ということだってそれは一つの動作であって、一つの動作ではない。みる、きく、受け取る、伝える、それらを踏まえた上で「コーヒーを淹れる」が存在する。レシピを覚えたからといって、コーヒーという物質を淹れる訓練をしたからといって、それは「コーヒーを淹れれる」とはいえないのではないか。
例え、淹れる相手が自分だったとしても。
なんて偉そうなことを言っているけれど、そういう意味でいえば私も半人前といえるであろう。生涯で「コーヒーを淹れる」を完璧に攻略できるとも思えない。
「完璧な人間」がいないように「完璧なコーヒー」なんてないのかもしれない。だからこそ、そこに向かいたいと思う意識と姿勢があるのみ。
だからこそ、良いのかもしれない。
みる、きく、問う、伝える、渡す、受け取る。そういった普通の動作の一つ一つを、もっと見つめていきたいなあと思う。すべての動作の根底に共通する「それ」を大切にすると、飾り立てられた「良い」ではない、地味でふつうで穏やかな「いい」感じの空気が溢れ出るはず。
ただただ、丁寧、ということでもなく。ただただ、ゆっくり、ということでもなく。
その根底に共通する大事なものを、どんな時も大事にすること。それは今後の課題である。
カフェとしての課題でもあるし、人生の課題でもある。
花も、虫も、人も、空気も、風景も、天気も。愛そう、愛そう、とするのではなく、溢れ出てくるような愛のかたちがもっとも望ましいのかもしれない。
溢れ出てくるような、愛のかたち。不可抗力的に湧き出る泉のようなかたち。
遠くの誰かの泉を探しにいくのではなく、下に下に、自身の源泉まで掘っていくこと。一度湧き出た泉は、きっと枯れない。
そんなこんなで、今週も一週間頑張りましょー◎
お客様への愛、コーヒーへの愛、全てのモノへの愛を感じます
このブログに書かれている様な事を真剣に考えてお店をやっている事をブログを読んでいない方にも もっと知って頂きたい
いや、自然と伝わっている事でしょう
私も自分自身の為に淹れるコーヒーも愛を込めて淹れてみよう!
そういえば庭の苺につくナメクジを駆除する薬を買ったけど使っていない事に気付いた
ちっちゃな家庭菜園で出荷する訳でもないし…半分は虫達にお裾分け、半分は人間が頂く事にしましたʬʬ