ズレているという喜び
ある日、コーヒーを淹れながら、ふと思った。
わたしにとっての「コーヒー」は、相手にとっても「コーヒー」なのだろうか?
物質的観点から見れば、それはおそらく互いにとって「コーヒー」であり、異論はない。だけれど、その人が定義するものの観点からみればそれが異なることもあるのではないか。
ふたりの人物の間にはほんのすこしの「ズレ」が生じているのではないか。自分の定義と相手の定義が一致している確証などない。
コーヒーだけじゃない。そもそも、すべての言語や行動においてそれはいえるような気がする。ある人にとっては「愛の形」であるものが、別のある人にとっては「監獄」かもしれないし、ある人にとっては「称賛」であるものが、別のある人にとっては「屈辱」かもしれない。
いつまでたっても合致はしない。どっちが良い、とか、どっちが悪い、でもない。
ただ「違う」というだけだ。
世界は微妙な「ズレ」を含んだ形で成り立っていて、そのズレがあまりにも大きな相手と深いコミュニメーションをとることは、けっこう難しいしストレスを感じる。難しいけれど、じゃあそもそもコミュニケーションを取ることをやめればいいか、というとそういうわけでもない。
難しいことを承知の上で、歩み寄っていくしかない。傷ついたり、傷つけたりしながら、そうやって伝えあっていくしかない。大切な人であるならば。
お店の場合も同様。お店の「提供しているもの」とお客さんの「受け取っているもの」の間には、おそらくなんらかの「ズレ」が生じていて、それはそれで間違いではなく、受け取った側の評価がお店の評価へとつながる。じゃあ、その評価が「正しいのか」と言われればそんなことはなく、差し出した側と受け取った側の「価値観のズレ」でしかない。
ただ「違う」というだけなのだ。そこで争うことほど不毛なものはない。
世間とのズレ、社会とのズレ、組織とのズレ、あなたとのズレ。
ズレている、ということは悪いことでもなんでもない。「同じ」ということが嬉しいことであるならば「違う」ということもまた嬉しいこと。
この白線の上を歩きましょうと言われた時に、私はちょっとはみ出しながら歩くことにしている。だってそのほうが面白いから。スタスタときれいに歩けることよりも、おっとっと、とバランスを崩しながら歩けることに喜びを感じるから。
予定調和をなぞらない。ズレを調整しすぎない。そこにユーモアや愛おしさがあるような気がする。
毎日お散歩中に挨拶をしていってくれる、おばあちゃんとのズレている会話が好きだ。正しさの向う側にある会話に案外人は救われるのではないか。
すべてがかっちりと、きれいに収まった世界では、私はきっと息ができない。
いつも最高に美味しいコーヒーをありがとうございます
ここでひとつ疑問が…美味しいコーヒーとはいつの時点のコーヒーを指すのだろう
そりゃ淹れたてが美味しいに決まってるんだからホットコーヒーなら冷めない内に早く飲むべき
いやいや、温度の変化による味の変化もコーヒーの味わいなんだからゆっくりで良いんだよ
本を読みながら、ひと口づつコーヒーを飲んでるとすぐに冷たくなっちゃうけど、冷めたコーヒーもなんか美味しいんだよねʬ
飲み方が違えば味も違ってくる
どれも正解!
まぁ、好きなように飲んだら良いんだよね
好きな味わいも人それぞれ、気温の感じ方も、本当は見えている色も皆んな同じではないのかもしれない
皆んなが全ての事を全く同じ様に感じていたらつまらないですよね
皆んな違って皆んな良い、とズレまくったおじさんが言ってみるʬ