「勿体ない」の断片
「もったいない」という言葉が、なんか苦手だ。
いや、正確には「もったいない」と言われるシチュエーションに対して「本当に、勿体無いですか?」と、異議申し立てしたい気持ちになることが多々ある。
子どもが1歳くらいの頃、トイレットペーパーをぐるぐると引き出して遊ぶことにハマっていた。1日に何度もぐるぐると引き出し、私はそれを巻き戻し、また子どもは楽しそうにそれを引き出す。
ある日、旦那さんがそれをみて「もったいない!」と言ってやめさせようとした。
ここで、私の頭には疑問が浮かぶ。
この、楽しそうにトイレットペーパーを出すという行為は本当に勿体ないのか?「おもちゃ」として与えられていないもので、自分で遊びを「発見」し、脳を活性化させることは「勿体ない行為」なのか?むしろ、その能動性を奪ってしまうことの方が「勿体ない」のではないか、、??
たとえば、街でいつも「ルーティーンの一環として」お散歩の途中に寄り道していくおばあちゃんがいる。そのおばあちゃんは、おんなじ話を1日に10回ほど、週に5回、移動販売の時からきているからかれこれ7年くらい毎日してくれる。(その話はもう2万回聞いたのだけれど)と思いながら、初めて聞くかのように相槌を打ち、お客さんがきたら少し移動してもらって、お散歩の帰りにはまたやってくる。
その光景をみた人はその時間を「勿体ない」というかもしれない。
確かに「営業時間内になるべく多くのお金を生み出す」という生産性、合理化という観点から判断するとしたらその時間は「勿体ない」のかもしれない。けれど、私たちからしたら「彼女のルーティーンを一緒に過ごすこと」は決して勿体なくない。
むしろ、街を構成する要素として、それは大事な断片ではないか、と。
その違いは、おそらく視点の違いであり、視野が狭ければ狭いほど「自分にとって理解できない不合理」に対して短絡的に「勿体ない」という烙印を押してしまいがちなのではないか。
確かに、世の中には本当に「勿体ない」こともある。
「勿体ない」から生まれる素晴らしいビジネスもある。
「勿体ない」は有限であるものに対して、警鐘を鳴らす役目もある。
だから、すべてに対しての「勿体ない」という言葉が無くなればいいとは思わない。
だけれど「勿体ない」と発しそうになった時、それは本当に、どの視点からみても「勿体ない」のか?不合理でしかないのか?1mmも、それによって潤滑になる箇所はないのか?一度立ち止まって考えてみてもいいもではないか、と思う。
その、簡単に削いでしまえそうな勿体ない不合理の中にこそ、大事なものはあるのかもしれない。
トイレットペーパーのくだり分かります、小さな子どもにとってはトイレットペーパーもboxティッシュも「おもちゃ」になるんですʬ
消費してしまう訳ではないのだから、もったいないどころか、むしろおもちゃを買わずに遊べるお得なモノと言えるのかもʬ
車のレースに興味が無い人にとってはレースなど無駄にガソリンとタイヤを減らしてもったいない!って感じなのだろう
同じ映画を何度も劇場に観に行く人に対し、「お金も時間ももったいない」と思っていたが、音楽だって何度も聴くんだし、映画だって一緒だよな〜って最近思う様になった
もったいない、無駄な事の中に「心を豊かにする何か」が有るのならば、それは「もったいなくない、有益な事」なのだろう…